2ヵ月後と2年後の広島

菊池(きくち)氏が被爆(ひばく)から2カ月後と2年後に同じ場所をほぼ同じ地点から撮影(さつえい) した4対の写真。左(2カ月後)と右(2年後)の写真を (くら)べると、焼け野原と化した街に家が建ち、にぎやかな人通りや子どもの遊ぶ姿(すがた)(もど)りつつあるのが分かる。原爆(げんばく)によってすべてを失った人々が、絶望(ぜつぼう)の底から立ち上がり、一日一日を懸命(けんめい)に生きたことの(あかし)である。


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1・2 紙屋町交差点 爆心地(ばくしんち)から約260m 市内電車宇品線(うじなせん)。2年後の運行車両は40台前後に回復(かいふく)したが、車内は超満員(ちょうまんいん)。ぶら下がりや飛び乗り飛び()りも多く、事故(じこ)が多発した。


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3・4 広島電鉄本社 爆心地(ばくしんち)から約2km 社屋は延焼(えんしょう)をまぬがれたものの、屋根や(かべ)(くず)れ落ち、多くの死傷者(ししょうしゃ)を出した。復旧(ふっきゅう)工事が完了(かんりょう)したのは2年後の9月だった。


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5・6 爆心地(ばくしんち)島病院(しまびょういん) 原爆(げんばく)はこの上空約600mでさく(れつ)し、(あつ)さが1m近くあった島病院のレンガ(へき)一瞬(いっしゅん)崩壊(ほうかい)した。2年後は病院前の道路を(なな)めに横切った位置から撮影(さつえい)。赤ちゃんをひざに乗せた女性(じょせい)が見つめる雑草(ざっそう)の生えた空き地が爆心地(ばくしんち)


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7・8 尾長(おなが)説教所(せっきょうじょ) 爆心地(ばくしんち)から約3.4km 爆風(ばくふう)により(かわら)(くだ)け屋根の骨組(ほねぐ)みがむき出しとなった。2年後、説教所は改築(かいちく)前だが境内(けいだい)には野球に(きょう)じる少年達の姿(すがた)があった。