昭和20年 秋

赤十字旗の下で

戦傷病者(せんしょうびょうしゃ)とその救護(きゅうご)にあたる人や施設(しせつ)攻撃(こうげき)から守るために定められた赤十字マーク。被爆後(ひばくご)、赤十字の旗や看板(かんばん)は、焼け残った市内の病院、救護病院(きゅうごびょういん)となった検疫所(けんえきじょ)や国民学校にも(かか)げられた。
菊池(きくち)氏は、病院や救護所(きゅうごじょ)(おとず)れ、原爆(げんばく)が人体に(およ)ぼした被害(ひがい)治療(ちりょう)の様子を撮影(さつえい)した。その記録は占領軍(せんりょうぐん)によって接収(せっしゅう)され、1973(昭和48)年に複写(ふくしゃ)フィルムとなって返還(へんかん)された。以後、菊池(きくち)氏が撮影(さつえい)した写真は数々の報告書(ほうこくしょ)出版物(しゅっぱんぶつ)掲載(けいさい)され、原爆被害(げんばくひがい)悲惨(ひさん)さや特殊性(とくしゅせい)を伝えている。


広島赤十字病院 撮影場所(さつえいばしょ)/千田町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約1.5km 被爆(ひばく)翌月(よくげつ)から建物の修復工事(しゅうふくこうじ)を開始したが、爆風(ばくふう)により鉄製(てつせい)窓枠(まどわく)は内側へ()し曲げられ(まど)ガラスは(くだ)け散ったままである。 荷車で帰る患者(かんじゃ) 撮影場所(さつえいばしょ)/千田町一丁目 爆心地(ばくしんち)から約1.5km やけどの治療(ちりょう)を終え、広島赤十字病院前の電車通りを荷車に乗って帰る患者(かんじゃ)。家族が毎日荷車を引いて通院した。
 
血液検査(けつえきけんさ) 撮影場所(さつえいばしょ)/広島赤十字病院 放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)で白血球の異常減少(いじょうげんしょう)が起こることが報道(ほうどう)され、被爆者(ひばくしゃ)検査(けんさ)を求めることもあった。顕微鏡(けんびきょう)をのぞく医師(いし)表情(ひょうじょう)真剣(しんけん)に見つめる患者(かんじゃ)
横たわる兵士 撮影場所(さつえいばしょ)/宇品町(うじなちょう)(現在(げんざい)宇品東(うじなひがし)五丁目) 爆心地(ばくしんち)から約4.2km 広島第一陸軍病院(りくぐんびょういん)宇品分院(うじなぶんいん)となった陸軍船舶(りくぐんせんぱく)練習部(れんしゅうぶ)にて。無表情(むひょうじょう)で横たわる兵士。右腕(みぎうで)のやけどに皮膚移植(ひふいしょく)を受けている。

広島逓信局(ていしんきょく)()らす人々 撮影場所(さつえいばしょ)/基町(もとまち)(現在(げんざい)の東白島町) 爆心地(ばくしんち)から約1.4km 治療(ちりょう)を終えても帰るところのない人やその家族が広島逓信局(ていしんきょく)で生活していた。庁舎(ちょうしゃ)修復(しゅうふく)見込(みこ)みが立たず、(まど)(とびら)もないまま冬を(むか)えようとしていた。

広島逓信病院(ていしんびょういん)での解剖(かいぼう) 撮影場所(さつえいばしょ)/基町(もとまち)(現在(げんざい)の東白島町) 爆心地(ばくしんち)から約1.4km 仮設(かせつ)の建物で原爆(げんばく)()くなった人の解剖検査(かいぼうけんさ)が行われた。解剖(かいぼう)は連日深夜まで続けられ、その数は30体に(およ)んだ。

荷車で運ばれてきた少年 撮影場所(さつえいばしょ)/大芝(おおしば)国民学校 大芝町(おおしばちょう)(現在(げんざい)大芝(おおしば)一丁目) 爆心地(ばくしんち)から約2.4km 大芝(おおしば)救護病院(きゅうごびょういん)で荷車に乗ったまま治療(ちりょう)を受ける少年。当時診療(しんりょう)を行える医療機関(いりょうきかん)は少なく、遠方から(おとず)れる患者(かんじゃ)も多かった。

袋町(ふくろまち)救護病院(きゅうごびょういん)の入口 撮影場所(さつえいばしょ)/袋町(ふくろまち)国民学校 袋町(ふくろまち) 爆心地(ばくしんち)から約460m 袋町(ふくろまち)国民学校は被爆後(ひばくご)間もなく救護所(きゅうごじょ)となり多くの被災者(ひさいしゃ)が集まった。県庁衛生課(えいせいか)保健所(ほけんじょ)も入り、9月以降(いこう)は県立広島病院の医師(いし)による治療(ちりょう)が行われた。
 

袋町(ふくろまち)救護病院(きゅうごびょういん)外来治療(がいらいちりょう) 撮影場所(さつえいばしょ)/袋町(ふくろまち)国民学校 コンクリート(へき)がむき出しの教室で診療(しんりょう)が行われ、重傷者(じゅうしょうしゃ)蚊帳(かや)をつって収容(しゅうよう)した。黒板も(つくえ)もない教室での授業再開(じゅぎょうさいかい)は、1946(昭和21)年5月のことだった。
大芝(おおしば)救護病院(きゅうごびょういん)収容(しゅうよう)された母と(むすめ) 撮影場所(さつえいばしょ)/大芝(おおしば)国民学校 入院中の母と(むすめ)医師(いし)から二人とも長くは生きられないだろうと聞かされた菊池(きくち)氏ら撮影班(さつえいはん)は、改めて原爆(げんばく)(おそ)ろしさを感じ、心を(いた)めた。

草津(くさつ)救護病院(きゅうごびょういん)での解剖(かいぼう) 撮影場所(さつえいばしょ)/草津(くさつ)国民学校 草津東町(くさつひがしまち)(現在(げんざい)草津東(くさつひがし2ちょうめ)二丁目) 爆心地(ばくしんち)から約4.7km 校庭の物置を利用して遺体(いたい)解剖(かいぼう)する研究者達。外傷(がいしょう)はほとんど無いが、臓器(ぞうき)には放射線(ほうしゃせん)による異常(いじょう)が見られた。
臨時(りんじ)野戦病院(やせんびょういん)となった似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)桟橋(さんばし) 撮影場所(さつえいばしょ)/似島町(にのしまちょう) 爆心地(ばくしんち)から約8.7km 日清戦争以後、戦地から帰還(きかん)した兵士はこの桟橋(さんばし)から上陸し、検疫(けんえき)を受けた。被爆後(ひばくご)宇品港(うじなこう)から負傷者(ふしょうしゃ)を乗せた船が次々と着岸した。