昭和22年 夏

経済(けいざい)と産業の復興(ふっこう)

原爆(げんばく)は衣食住だけでなく生活の(かて)を得る職場(しょくば)奪い去(うばいさ)った。ヤミ市は規制(きせい)の強化によって縮小(しゅくしょう)しつつあったが、物資(ぶっし)の不足と価格(かかく)高騰(こうとう)はなかなか改善(かいぜん)されず、収入(しゅうにゅう)途絶(とだ)えた市民を苦しめた。
一方、連合国最高司令官総司令部(そうしれいぶ)(GHQ)は、工業設備(せつび)撤去(てっきょ)して戦勝国への賠償(ばいしょう)()てさせるため、広島市とその周辺の主要工場に現状維持(げんじょういじ)義務付(ぎむづ)けた。このことも、経済(けいざい)復興(ふっこう)を大きく阻害(そがい)した。
本格的(ほんかくてき)復興(ふっこう)を目指すには、工場や商店を再建(さいけん)し生産や流通を回復(かいふく)させること、市民の雇用(こよう)促進(そくしん)購買力(こうばいりょく)を生むことが必要だった。


広島駅前の変ぼう
靴修理屋(くつしゅうりや) 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 広島駅前のヤミ市は、1946(昭和21)年以降(いこう)規則(きそく)による取り締(とりし)まりが強化されて次第に縮小(しゅくしょう)し、やがて民衆(みんしゅう)マーケットへと姿(すがた)を変えた。マーケット入口で靴修理(くつしゅうり)をする男性(だんせい)

バス停 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 海田・矢野方面に向かうバスの停留所(ていりゅうじょ)。バスはまだ小型のボンネットバスである。後方に、修復工事(しゅうふくこうじ)の続く広島駅が見える。
ライター屋 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 ライターの販売(はんばい)よりも修理(しゅうり)が主体の店であろうか。新しいものはなかなか手に入らず、できるだけ再利用(さいりよう)していた様子がうかがえる。

手相(うらな) 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 マーケット付近で手相(うらな)いをする易者(えきしゃ)。今後の人生はどうなるのか、易者(えきしゃ)を囲む人々の表情(ひょうじょう)真剣(しんけん)そのもの。

地場産業の復活(ふっかつ)


日本一復活(ふっかつ)を目指して 撮影場所(さつえいばしょ)/上天満町 現在(げんざい)も国内一位のシェアを(ほこ)る広島の(はり)工業。その背景(はいけい)には、被爆後(ひばくご)いち早く工場を再建(さいけん)し生産を再開(さいかい)した人々の努力があった。工員の眼差(まなざ)しに復興(ふっこう)への意欲(いよく)と自信が感じられる。

製針(せいしん)工場 撮影場所(さつえいばしょ)/上天満町 手縫針(てぬいばり)専業(せんぎょう)メーカーとして全国一の生産量を(ほこ)っていた工場。稼動再開(かどうさいかい)により、工員は(ふたた)びその優秀(ゆうしゅう)技術(ぎじゅつ)発揮(はっき)することができた。
広島商工会議所から 撮影場所(さつえいばしょ)/基町(もとまち) 平和記念公園となった中島地区を中心に南方を見渡(みわた)す。菊池(きくち)氏とともに学術調査団(がくじゅつちょうさだん)に参加した林重男氏が1945(昭和20)年10月に同位置から()ったパノラマ写真との対比(たいひ)意識(いしき)したものと思われる。

上の写真はQuickTimeVRで制作しています。
マウスポインタで180度のパノラマがご覧いただけます。