昭和20年 秋

復興(ふっこう)のきざし

被爆後(ひばくご)75年間は草木も生えないと言われた広島。しかし、広島は息()えてはいなかった。生命線である輸送機関(ゆそうきかん)、通信、電力などをいち早く復旧(ふっきゅう)させ、人や物資(ぶっし)を運び、情報(じょうほう)やエネルギーの供給(きょうきゅう)確保(かくほ)した。
2ヵ月後、焼け(あと)にはバラックの建物が目につくようになり、駅前など人の集まる場所にはヤミ市が発生した。バラックとヤミ市の増大(ぞうだい)は、治安や衛生面(えいせいめん)の問題を(かか)えてはいたが、復興(ふっこう)の始まりを象徴(しょうちょう)する現象(げんしょう)だった。
菊池(きくち)氏は、駅周辺に街とそこに生きる人々の復興(ふっこう)のきざしを見出し、カメラに(おさ)めている。


横川駅付近のバラック 撮影場所(さつえいばしょ)/横川町 爆心地(ばくしんち)から約1.7km 横川駅前から楠木町(くすのきちょう)一丁目を()三篠橋(みささばし)(いた)る道を東に向かって撮影(さつえい)。この周辺には、被災者(ひさいしゃ)瓦礫(がれき)廃材(はいざい)を使って建てたバラックが数多く見られた。
生ビール立ち飲み所 撮影場所(さつえいばしょ) 不明 広島駅前や横川駅前など市内数箇所(すうかしょ)(もう)けられたビール立ち飲み所。午前と午後の約1時間ずつビールが販売(はんばい)された。焼け野原の中、どこからともなく人が集まり列を作った。

広島駅の臨時(りんじ)改札口 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 爆心地(ばくしんち)から約1.9km 改札口は駅舎(えきしゃ)西寄(にしよ)りに仮設(かせつ)された。列車の発車時刻(はっしゃじこく)と乗り場を知らせる札が()けられている。車両の被災(ひさい)と石炭不足のため、便数は少なかったが、すべての路線が開通している。

広島駅で列車を待つ人々 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 爆心地(ばくしんち)から約1.9km ホームは列車を待つ人で(はし)から(はし)まで()()くされている。長時間待ち続けているのか、荷物に腰掛(こしか)ける人や寝転(ねころ)ぶ人もいる。写真手前が上り方向。

広島駅で切符(きっぷ)を買い求める人々 撮影場所(さつえいばしょ)/松原町 爆心地(ばくしんち)から約1.9km 被爆(ひばく)した駅舎(えきしゃ)前に急造(きゅうぞう)した事務室(じむしつ)で駅の業務(ぎょうむ)が行われた。窓口(まどぐち)には切符(きっぷ)を求めて大勢(おおぜい)の人々が()めかけた。

己斐(こい)復興祭(ふっこうさい) 爆心地(ばくしんち)の西方約3.2kmの己斐町(こいちょう)(現在(げんざい)己斐本町(こいほんまち)一丁目)。10月19日、この地区の秋祭りに合わせて中国復興財団(ふっこうざいだん)復興祭(ふっこうさい)(もよお)した。

駅前の会場で行事案内の張り紙(はりがみ)を見る人たち。

収穫(しゅうかく)を祝う(たわら)もみ。観衆(かんしゅう)の後ろに大破(たいは)した家屋が見える。

(たわら)みこしを(かつ)若者(わかもの)たち。

仮設(かせつ)舞台(ぶたい)で行われた演芸会(えんげいかい)