肖像(しょうぞう)①(写真提供(しゃしんていきょう)/菊池徳子(きくちのりこ)氏)

菊池俊吉(きくちしゅんきち)

(1916‐1990年)岩手県(いわてけん)花巻市(はなまきし)に生まれ、オリエンタル写真学校卒業後、東京光芸社を()て東方社入社。1945(昭和20)年、文部省(もんぶしょう)学術研究(がくじゅつけんきゅう)会議(かいぎ)編成(へんせい)した原爆被害(げんばくひがい)調査団(ちょうさだん)に同行し広島を撮影(さつえい)。1947(昭和22)年、(きゅう)東方社を再編(さいへん)した文化社のメンバーと写真集「LIVING HIROSHIMA」製作(せいさく)のため(ふたた)び広島へ。その後、農村漁村の()らしを題材としたシリーズや科学分野の撮影(さつえい)などで幅広(はばひろ)活躍(かつやく)

プロローグ
―決め手となったレントゲンフィルム

広島赤十字病院レントゲン撮影室(さつえいしつ)には、壁面(へきめん)()()まれた保管庫(ほかんこ)があった。被爆(ひばく)当日、庫内には未使用のレントゲンフィルムが入っていたが、原爆(げんばく)により放出された放射線(ほうしゃせん)は、(あつ)さ1.3cmの保管庫(ほかんこ)(とびら)金属製(きんぞくせい)のケースを通過(つうか)し、フィルムを真っ黒く感光させた。当時の状況(じょうきょう)再現(さいげん)して撮影(さつえい)