きかくてんをみよう

ヒロシマ壊滅の記録

瓦礫(がれき)の街を歩く 2
元安橋と燃料会館(ねんりょうかいかん)

元安橋と燃料会館(ねんりょうかいかん)

撮影場所 元安橋中央部
爆心地からの距離 約130m

元安橋南側の欄干(らんかん)は親柱を残して落下している。現在平和記念公園レストハウスとなっている燃料会館(ねんりょうかいかん)は、地下室を(のぞ)き全焼した。

元安橋を西から東に向かって

元安橋を西から東に向かって

撮影場所 細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)
爆心地からの距離 約40m

爆心直下(ばくしんちょっか)でほぼ真上から爆風(ばくふう)を受けたため、欄干(らんかん)はそれぞれ川に向かって落下し、親柱の火袋(ひぶくろ)笠石(かさいし)も左右対称(たいしょう)に外側へずれている。


相生橋 歩道

相生橋 歩道

撮影場所 相生橋中央部
爆心地からの距離 約300m

川面に反射(はんしゃ)した爆風(ばくふう)は橋の北側を大きく持ち上げ、歩道と車道の間に最大1.4mのすき間ができた。電柱は左右に(かたむ)き、粉々になった敷石(しきいし)や折れた排水管(はいすいかん)が散らばっている。

相生橋 雨水枡(うすいます)

相生橋 雨水枡(うすいます)

撮影場所 相生橋中央部
爆心地からの距離 約300m

この雨水枡(うすいます)は、爆風(ばくふう)にあおられて橋全体が波打った(さい)飛び出したものと思われる。市内電車は、9月7日に八丁堀(はっちょうぼり)己斐間(こいかん)、10月1日に山口町(現在の銀山町)~己斐間(こいかん)復旧運転(ふっきゅううんてん)再開(さいかい)された。

相生橋西詰(にしづめ)

相生橋西詰(にしづめ)

撮影場所 鍛冶屋町(かじやちょう)(現在の本川町一丁目)
爆心地からの距離 約350m

橋のたもとには破壊(はかい)された線路の敷石(しきいし)やレールが置かれ、瓦礫(がれき)の中には荼毘(だび)のあとの遺骨(いこつ)が白く見える。電柱にくくりつけられた伝言板には被災者(ひさいしゃ)の氏名と避難先(ひなんさき)が記されている。


小田政(おだまさ)商店と中国新聞社新館

小田政(おだまさ)商店と中国新聞社新館

撮影場所 流川町
爆心地からの距離 約830m

呉服問屋(ごふくどんや)小田政(おだまさ)商店は、戦時下の衣料(いりょう)統制(とうせい)のもと、店内で軍服の仕立ても行なっていた。爆風(ばくふう)火災(かさい)でむき出しとなった鉄骨(てっこつ)はアメのように曲がり、自らの重みで(しず)みこんでいった。中国新聞社新館は、外郭(がいかく)を残して内部を全焼し、設備(せつび)機材(きざい)もすべてを失った。

福屋百貨店と路面電車

福屋百貨店と路面電車

撮影場所 流川町(現在の鉄砲町(てっぽうちょう)
爆心地からの距離 約780m

地下2階地上8階建ての福屋百貨店新館は、当時売り場のほとんどを陸軍、統制(とうせい)会社などに供出(きょうしゅつ)していた。内部はほとんど焼失し、多数の死傷者(ししょうしゃ)を出した。焼け()げて軌道(きどう)から外された路面電車。被爆(ひばく)直後の車内には、高熱火災(こうねつかさい)により白骨(はっこつ)と化した遺体(いたい)が折り重なっていたという。