広島に入ってはじめての晴れの日です。 朝一番で、焼け野原になった広島のパノラマ写真を撮(と)ろうと 前の日にねらいをつけておいた 広島商工会議所屋上の望楼(ぼうろう)に上がったときのことです。 「こんなばかな.」私(わたし)は思わずつぶやきました。
「爆心地(ばくしんち)ヒロシマに入る」林重男著(はやししげおちょ) 岩波ジュニア新書より
林重男氏
広島護国(ごこく)神社参道(さんどう)前にて 1945(昭和20)年10月 田子恒男(たごつねお)氏撮影(さつえい)
はじめに
林重男氏は、文部省(もんぶしょう)学術研究(がくじゅつけんきゅう)会議(かいぎ)が組織(そしき)した原子爆弾(げんしばくだん)災害(さいがい)調査研究(ちょうさけんきゅう)特別委員会(とくべついいんかい)の調査団(ちょうさだん)(学術(がくじゅつ)調査団(ちょうさだん))にスチールカメラマンとして参加し、被爆(ひばく)から55日目の広島を訪(おとず)れた。東京で生まれ育った林氏が、調査団(ちょうさだん)の一員という立場で訪(おとず)れた広島の街。しかし、その中心に立ったときの「こんなばかな」という一語に、林氏のあらゆる感情(かんじょう)が集約されている。 2000(平成12)年8月6日、広島市は林重男氏よりオリジナルフィルム232枚を寄託(きたく)され、広島平和記念(へいわきねん)資料館(しりょうかん)でフィルムの収蔵管理(しゅうぞうかんり)と全写真の検証(けんしょう)およびデータベース化を行なった。 企画展(きかくてん)では、その成果をもとに、広島壊滅(かいめつ)を記録した代表的カメラマンの一人である林氏の写真を紹介(しょうかい)する。
爆心地(ばくしんち)での映画撮影(えいがさつえい)
撮影(さつえい)場所 細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)
爆心地(ばくしんち)島病院で残留(ざんりゅう)放射能(ほうしゃのう)を測定(そくてい)する調査員(ちょうさいん)と、その様子を撮影(さつえい)する日本映画社(にほんえいがしゃ)のスタッフ。
ヒロシマを訪(おとず)れた学術(がくじゅつ)調査団(ちょうさだん)
撮影場所 基町(もとまち) 爆心地からの距離(きょり) 約160m
広島護国(ごこく)神社参道(さんどう)前に集合した学術(がくじゅつ)調査団(ちょうさだん)。爆心地(ばくしんち)の方向を向いている。