きかくてんをみよう

ヒロシマ壊滅の記録

瓦礫(がれき)の街を歩く 1

林重男氏は、要求されたものだけを()るつもりでいたが、放射線(ほうしゃせん)測定器(そくていき)設置(せっち)などで(いそが)しい調査員(ちょうさいん)から、カメラマン自身の判断(はんだん)撮影(さつえい)せよとの指示(しじ)が出された。
「さあ、こうなると責任(せきにん)重大(じゅうだい)だ。がぜん(かた)の荷が重くなってきた。」*
林氏は歩きながら、不思議に思ったもの、印象的なものを()り続けた。

爆心地(ばくしんち) 島病院玄関(げんかん)

爆心地(ばくしんち) 島病院玄関(げんかん)

細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)

レンガ(づく)り2階建ての島病院は、玄関(げんかん)両サイドの丸柱と円形窓(えんけいまど)特徴的(とくちょうてき)な建物だった。原爆はこの上空600mでさく(れつ)した。(かべ)(あつ)さは1m近くあったが、原爆の破壊力(はかいりょく)にはひとたまりもなかった。

島病院の関係者(かんけいしゃ)への伝言板(でんごんばん)

島病院の関係者(かんけいしゃ)への伝言板(でんごんばん)

細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)

島薫(しまかおる)院長が関係者の消息をたずねるため書いた伝言板。院長の願いもむなしく、関係者には一人の生存者(せいぞんしゃ)も無かった。

 

清病院南側道路より

清病院南側道路より

撮影場所 細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)
爆心地からの距離 約40m

島病院から十字路を(はさ)んで(なな)め向かいにあった皮膚(ひふ)泌尿器(ひにょうき)科の清病院は、患者(かんじゃ)通用口と(へい)の一部を残して全壊(ぜんかい)した。(へい)の外側に「清ハナ健在無事(けんざいぶじ)」の伝言が記されていた。

島病院伝言板を見る人

島病院伝言板を見る人

撮影場所 細工町(さいくまち)(現在の大手町一丁目)

島病院南側の細工町通り、南から北を望む。写真中央、三角形に残った(かべ)の下から女性(じょせい)の足元付近に立てかけられているのが、島院長の書いた伝言板。



本通り

本通り

撮影場所 平田屋町(ひらたやちょう)(現在の本通)
爆心地からの距離 約650m

キリンビヤホール(現在の広島パルコ本館)前付近から西を望む。名店が(のき)(なら)べていた本通り商店街は、爆風(ばくふう)火災(かさい)によって鉄筋(てっきん)コンクリート(ぞう)(のぞ)くすべての建物が崩壊(ほうかい)した。

下村時計店

下村時計店

撮影場所 播磨屋町(はりまやまち)(現在の本通)
爆心地からの距離 約620m

当時の商店には(めずら)しい鉄筋(てっきん)コンクリート(ぞう)で、四方に丸時計のついた時計台がシンボルとなっていたが、建物の中心部に柱がないため、側壁(そくへき)爆風(ばくふう)()えきれず、1階部分は()しつぶされ、2階と時計台が横座(よこずわ)りするような格好(かっこう)で残った。


広島瓦斯(ガス)本社

広島瓦斯(ガス)本社

撮影場所 大手町三丁目(現在の大手町二丁目)
爆心地からの距離 約210m

爆心(ばくしん)に面した北東側は大きく(くず)れたが、南西側と2階バルコニーを丸柱で(ささ)えた玄関(げんかん)は残った。火災(かさい)は2日間続き、社長以下約30人の職員(しょくいん)が建物内で()くなった。

広島県産業奨励館(さんぎょうしょうれいかん)

広島県産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)

撮影場所 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目)
爆心地からの距離 約160m

本来は県産品の展示(てんじ)販売(はんばい)のほか博物館や美術館(びじゅつかん)としての役割(やくわり)(にな)っていたが、戦争末期には内務省(ないむしょう)中国四国土木出張所(どぼくしゅっちょうじょ)や木材統制(とうせい)会社に利用されていた。爆風(ばくふう)がほぼ真上から(おそ)ったため、中にいた人は全員死亡(ぜんいんしぼう)した。(かべ)の一部は倒壊(とうかい)(まぬが)れドームの鉄枠(てつわく)とともに象徴的(しょうちょうてき)姿(すがた)が残った。