きかくてんをみよう

ヒロシマ壊滅の記録

(くだ)かれた史跡(しせき)

立ったままの鳥居(とりい)と折れている鳥居(とりい)(かたむ)きの(ちが)う一対の灯ろう、焼け落ちた護国(ごこく)神社社殿(しゃでん)と焼けていない広島城(ひろしまじょう)天守閣(てんしゅかく)
天守閣(てんしゅかく)に近づくと、爆心地(ばくしんち)から1キロ以内なのにこんな不思議なことがと、目を見張(みは)ったものがあります。それは、()えていない木材の山でした。(あつ)いしっくいが原爆(げんばく)の熱線を(ふせ)いだのでしょう。」*
「なぜ」という疑問(ぎもん)に自分なりの考察を(あた)えながら、林重男氏は撮影(さつえい)を続けた。

広島護国(ごこく)神社境内(けいだい)撮影(さつえい)ポイント

1945(昭和20)年7月
米軍撮影の空中写真使用


広島護国(ごこく)神社拝殿(はいでん)前より北東に向かって

A 広島護国(ごこく)神社拝殿(はいでん)前より北東に向かって

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約330m

拝殿(はいでん)前の倒壊(とうかい)した鳥居(とりい)の内側から、前方に広島第一陸軍病院の焼け跡(やけあと)、後方に西練兵場(にしれんぺいじょう)(のぞ)む。被爆(ひばく)直後は、爆風(ばくふう)圧死(あっし)した兵士や熱線で全身やけどを負った兵士がいたるところに(たお)れていた。

落下した手水鉢(ちょうずばち)

B 落下した手水鉢(ちょうずばち)

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約330m

拝殿(はいでん)に通じる石畳(いしだたみ)の南側にあった手水鉢(ちょうずばち)は、一度空中に浮き上(うきあ)がり、90度回転しながら落下したものと思われる。


熱線でひび割(わ)れた灯ろう

C 熱線でひび()れた灯ろう

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約350m

拝殿(はいでん)南側にあった一対(いっつい)の灯ろうの片方(かたほう)爆心地(ばくしんち)に面した側が、熱線の影響(えいきょう)笠石(かさいし)台座(だいざ)ともにひび()れ、はく()している。花崗岩(かこうがん)顕著(けんちょ)に見られる現象(げんしょう)である。

広島護国(ごこく)神社中津宮(ちゅうしんみや)

D 広島護国(ごこく)神社中津宮(ちゅうしんみや)

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約350m

拝殿(はいでん)の北にあった中津宮(なかつみや)は、爆風(ばくふう)によって全壊(ぜんかい)した。その後、現在の青少年センター前に社殿(しゃでん)再建(さいけん)され、下水道工事の(さい)に見つかった鳥居(とりい)脚部(きゃくぶ)も近くに保存(ほぞん)されている。

爆風(ばくふう)で浮き上(うきあ)がった灯ろう

E 爆風(ばくふう)浮き上(うきあ)がった灯ろう

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約350m

拝殿(はいでん)北側にあった一対(いっつい)の灯ろう。右は鉄の心棒(しんぼう)()けて持ち上がり、左は焼けた小枝(こえだ)をくわえている。強い爆風(ばくふう)()き上がり引き(もど)されるまでの間に、一方は心棒(しんぼう)が曲がり、一方はとんできた小枝(こえだ)をはさみこんだのであろう。


広島護国(ごこく)神社参道(さんどう)の大鳥居(おおとりい)

広島護国(ごこく)神社参道(さんどう)大鳥居(おおとりい)

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約170m

広島護国(ごこく)神社には3つの鳥居(とりい)があったが、爆心地(ばくしんち)に最も近い参道の大鳥居(おおとりい)は、爆風(ばくふう)垂直(すいちょく)に受けたためか唯一(ゆいいつ)倒壊(とうかい)をまぬがれた。爆心側(ばくしんがわ)()かっていた扁額(へんがく)も、(かたむ)いただけで残っている。

広島城(ひろしまじょう)天守閣(てんしゅかく)

広島城(ひろしまじょう)天守閣(てんしゅかく)

撮影場所 基町(もとまち)
爆心地からの距離 約960m

広島城(ひろしまじょう)は当時の広島護国(ごこく)神社の北東約600mの位置にあった。五層(ごそう)天守閣(てんしゅかく)地響(じひび)きのような音とともに(くず)れ落ちたが火災(かさい)は発生しなかった。