ヒロシマ壊滅(かいめつ)の記録
林重男氏の前には、静かに広がる焼(や)け跡(あと)があった。しかし、林氏の脳裏(のうり)には、被爆(ひばく)直後の光景が浮(う)かんでくるのだった。 「数歩も歩けば死体を焼いた跡(あと)ばかりで、どこへ目を向けても2カ月前の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声が聞こえてくるようです。」* 林氏は爆心地(ばくしんち)から次第に撮影(さつえい)の輪を広げていった。
塩屋町(しおやちょう)付近(ふきん)から西北に向かって
撮影場所 塩屋町(現在の大手町二丁目) 爆心地からの距離 約250m
鉄筋(てっきん)コンクリートやレンガ造(づく)りの建物が並(なら)ぶ大手町筋(おおてまちすじ)。左から、広島瓦斯(がす)本社、広島銀行集会所、日本生命(にほんせいめい)広島支社、三和(さんわ)銀行広島支社、農林中央金庫広島支所(のうりんちゅうおうきんこひろしまししょ)、三井物産(みついぶっさん)広島出張所、千代田生命(ちよだせいめい)広島支社。
相生橋(あいおいばし)から
撮影場所 相生橋中央部 爆心地から距離 約320m
上空から見るとT字形に見える相生橋(あいおいばし)は、原爆投下目標(とうかもくひょう)にされた。被爆(ひばく)直後の橋の上には黒焦(くろこ)げになった人や馬が散乱(さんらん)し、下には川面をおおいつくすほどの遺体(いたい)が流れていた。
猿楽町(さるがくちょう)通りを東に向かって
撮影場所 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目) 爆心地からの距離 約120m
一帯の住宅(じゅうたく)や店舗(てんぽ)は全焼(ぜんしょう)全壊(ぜんかい)したが、コンクリートの防火水槽(すいそう)がかろうじてかつての軒並(のきな)みをとどめている。水槽(すいそう)は真上からの爆風(ばくふう)で底が抜(ぬ)け、多くの人がその近くで亡(な)くなっていた。
猿楽町(さるがくちょう)から電車通りを東に向かって
撮影場所 猿楽町(さるがくちょう)(現在の大手町一丁目) 爆心地からの距離 約130m
大きな荷物を背負(せお)った人、大八車(だいはちぐるま)やトラックに家財(かざい)を積んだ人が見える。
広島城(ひろしまじょう)天守閣跡(てんしゅかくあと)から北東に向かって
撮影場所 基町(もとまち) 爆心地からの距離 約960m
広島城(ひろしまじょう)二の丸御門(ごもん)から本丸に向かって
撮影場所 基町(もとまち) 爆心地からの距離 約690m
奥(おく)に見える広島城(ひろしまじょう)本丸(ほんまる)に、中国軍管区(ぐんかんく)司令部(しれいぶ)防空(ぼうくう)作戦室(さくせんしつ)があり、中で通信(つうしん)業務(ぎょうむ)にあたっていた2人の女子生徒が、被害(ひがい)の第一報(だいいっぽう)を送信した。
猿楽町(さるがくちょう)付近(ふきん)の被災者(ひさいしゃ)の遺骨(いこつ)
木造(もくぞう)家屋(かおく)がほとんどであったこの辺りは、いち早く炎(ほのお)に包まれ焼きつくされた。焼(や)け跡(あと)に、細かく砕(くだ)けた人骨(じんこつ)が残っている。
中島本町(なかじまほんまち)から南に向かって
撮影場所 中島本町(なかじまほんまち)(現在の中島町) 爆心地からの距離 約160m
現在(げんざい)平和記念公園となっている中島本町(なかじまほんまち)、材木町(ざいもくちょう)の焼(や)け跡(あと)から一面(いちめん)視界(しかい)をさえぎるものはほとんどなく、広島湾(ひろしまわん)に浮(う)かぶ金輪島(かなわじま)、江田島(えたじま)、似島(にのしま)などが見えた
広島護国神社(ごこくじんじゃ)参道(さんどう)から東に向かって
撮影場所 基町(もとまち) 爆心地から距離 約450m
現在(げんざい)の広島市民球場の北から撮影(さつえい)されたもの。参道(さんどう)の右が爆心(ばくしん)方向、左が広島第一陸軍病院(りくぐんびょういん)第一分院跡(だいいちぶんいんあと)。ひきちぎられた柳(やなぎ)が、爆風(ばくふう)の威力(いりょく)を物語っている。