東方社でグラフ誌
『FRONT』を作る
陸軍参謀本部は、日本の文化や産業を国内外に宣伝するグラフ誌の発行を計画し、出版社として東方社を設立。1942(昭和17)年創刊の『FRONT』は、A3版の高級紙に最新の印刷技術を駆使して作られたが、戦局が激しさを増す中、その内容は国威宣伝に終始した。林氏は、1943(昭和18)年、東方社へ入社。時には訓練機に同乗しながら爆撃機を撮影した。 |
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ヒロシマ・ナガサキを
撮る
1945(昭和20)年9月、学術調査団の撮影を担当する日本映画社のプロデューサー加納竜一氏が東方社写真部を訪れ、スチールカメラマン2名の応援を求めた。先輩の菊池俊吉氏が医学班に、林氏は物理班に所属し、助手として田子恒男氏が同行することになった。9月27日に東京を出発した林氏は、10月1日から広島を、13日から長崎を撮影し、23日に帰京した。 |
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写真で反核を
訴える
広島と長崎での経験は、その後の林氏の人生に大きな影響を与えた。1982(昭和57)年、『反核・写真運動』事務局が発足。その目的は、被爆の記録を集め、写真集や写真展を通じて反核運動を展開することであった。林氏は、積極的にこの運動に参加。のちに運営委員長となって、撮影者の交流、貴重なオリジナルプリントやネガフィルムの収集保存に尽力した。 |