きかくてんをみよう

1945(昭和20)年10月5日の広島

広島商工経済会(しょうこうけいざいかい)屋上から

撮影場所 基町(もとまち) 爆心地からの距離 約260m


林重男氏の足跡(そくせき)

林重男氏

林重男氏

1942(昭和17)年1月駐屯先(ちゅうとんさき)の満州にて 林建郎氏提供(ていきょう)

1918年東京都品川区上大崎(かみおおさき)生まれ。東京写真(しゃしん)専門学校(せんもんがっこう)卒業(そつぎょう)横浜(よこはま)シネマ現像所(げんぞうじょ)、3年間の兵役を()て東方社入社。27(さい)の時、学術(がくじゅつ)調査団(ちょうさだん)に参加し広島・長崎(ながさき)撮影(さつえい)。戦後は商業写真家として独立(どくりつ)。2002年、84(さい)永眠(えいみん)

東方社でグラフ()
『FRONT』を作る

陸軍参謀本部(りくぐんさんぼうほんぶ)は、日本の文化や産業を国内外に宣伝(せんでん)するグラフ()の発行を計画し、出版社(しゅっぱんしゃ)として東方社を設立(せつりつ)。1942(昭和17)年創刊(としそうかん)の『FRONT』は、A3(ばん)の高級紙に最新の印刷技術(いんさつぎじゅつ)駆使(くし)して作られたが、戦局が(はげ)しさを()す中、その内容(ないよう)国威宣伝(こくいせんでん)に終始した。林氏は、1943(昭和18)年、東方社へ入社。時には訓練機に同乗しながら爆撃機(ばくげきき)撮影(さつえい)した。

ヒロシマ・ナガサキを
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1945(昭和20)年9月、学術調査団(がくじゅつちょうさだん)撮影(さつえい)担当(たんとう)する日本映画社(にほんえいがしゃ)のプロデューサー加納竜一氏(かのうりゅういちし)が東方社写真部を(おとず)れ、スチールカメラマン2名の応援(おうえん)を求めた。先輩(せんぱい)菊池俊吉氏(きくちしゅんきちし)医学班(いがくはん)に、林氏は物理班(ぶつりはん)所属(しょぞく)し、助手として田子恒男氏(たごつねおし)が同行することになった。9月27日に東京を出発した林氏は、10月1日から広島を、13日から長崎(ながさき)撮影(さつえい)し、23日に帰京した。

写真で反核(はんかく)
(うった)える

広島と長崎(ながさき)での経験(けいけん)は、その後の林氏の人生に大きな影響(えいきょう)(あた)えた。1982(昭和57)年、『反核(はんかく)・写真運動』事務局(じむきょく)が発足。その目的は、被爆(ひばく)の記録を集め、写真集や写真展(しゃしんてん)を通じて反核運動(はんかくうんどう)展開(てんかい)することであった。林氏は、積極的にこの運動に参加。のちに運営委員長(うんえいいいんちょう)となって、撮影者(さつえいしゃ)の交流、貴重(きちょう)なオリジナルプリントやネガフィルムの収集保存(しゅうしゅうほぞん)尽力(じんりょく)した。