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遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
似島(にのしま)でどのくらいの人が()くなったのか、(くわ)しくは分かっていません。広島市は、1947(昭和22)年に、「千人塚(せんにんづか)」など似島(にのしま)の各地から遺骨(いこつ)収集(しゅうしゅう)し、広島市(ひろしまし)戦災死没者(せんさいしぼつしゃ)似島(にのしま)供養塔(くようとう)を建立しました。多くの遺体(いたい)埋葬(まいそう)したとされる馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)には、戦後、似島(にのしま)小学校、似島(にのしま)中学校(当初は市立(しりつ)第四(だいよん)中学校似島(にのしま)分校(ぶんこう))が移転(いてん)し、市営(しえい)住宅(じゅうたく)建設(けんせつ)されました。1971(昭和46)年10月10日から11日にかけて、似島(にのしま)中学校農業(のうぎょう)実習地(じっしゅうち)で工事中に7体の人骨(じんこつ)が発見されました。これをきっかけに遺体(いたい)発掘(はっくつ)が行われ、推定(すいてい)617体(火葬(かそう)()みの骨片(こっぺん)約100体分を(ふく)む)と61点の遺品(いひん)収集(しゅうしゅう)されました。

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遺体(いたい)とともに
収集(しゅうしゅう)された遺品(いひん)
1971(昭和46)年11月/
似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)
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似島(にのしま)をあとにする遺骨(いこつ)
1971(昭和46)年11月4日/似島(にのしま)沖合(おきあい)
発掘後(はっくつご)似島(にのしま)説教場(せっきょうじょう)仮安置(かりあんち)されていた遺骨(いこつ)は、26年ぶりに似島(にのしま)をあとにしました。遺骨(いこつ)は、広島大学医学部で鑑定(かんてい)を受けた後、火葬(かそう)され、平和記念公園にある原爆(げんばく)供養塔(くようとう)(おさ)められました。
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(ひつぎ)のそばで
土から遺骨(いこつ)
よりわける
広島戦災(せんさい)
供養会(くようかい)会員
1971(昭和46)年11月/
似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)

「広島戦災(せんさい)供養会(くようかい)」は被爆(ひばく)直後に広島の各地で火葬(かそう)され、そのまま埋葬(まいそう)された遺骨(いこつ)収容(しゅうよう)し、供養(くよう)するために1946(昭和21)年1月に設立(せつりつ)されました(設立(せつりつ)当初の名称(めいしょう)は「広島市戦災(せんさい)死没者(しぼつしゃ)供養会(くようかい)」)。この発掘(はっくつ)においても連日のように立ち会い、発掘(はっくつ)を手助けしました。
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地図 似島(にのしま)中学校
農業実習地での
遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)状況(じょうきょう)


●作業期間/10月29日~11月19日(22日間)

発掘(はっくつ)した総面積(そうめんせき)/2,922m2

遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)された場所/9カ所107m2推定(すいてい)517体)

火葬跡(かそうあと)が見つかった場所/7カ所70m2推定(すいてい)100体)

発掘(はっくつ)期間中(きかんちゅう)現場(げんば)(おとず)れた遺族(いぞく)/126人
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白木の(ひつぎ)(おさ)められた遺骨(いこつ)
1971年(昭和46年)11月/似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)
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遺族(いぞく)を求めて公開された遺品(いひん)

1971(昭和46)年11月27日付/朝日新聞

1971(昭和46)年11月26日から12月10日まで、広島平和記念館において、遺品(いひん)が公開されました。これにより5人の身元が判明(はんめい)し、公開前に身元が判明(はんめい)していた2人とあわせて、7柱が、遺族(いぞく)のもとに帰りました。そして分骨(ぶんこつ)の希望があった29柱と、山陽中学校の学生服の陶製(とうせい)ボタン4つが、申し出のあった遺族(いぞく)引き渡(ひきわた)されました。
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写真 64
バックル

「GRADUATE SUCCESS 2600」(祝卒業 皇紀2600年)と(きざ)まれたこのバックルは昭和15年度の卒業を記念して県立広島第二中学校の同級生に配られた76()のうちの1つであることが判明(はんめい)しましたが、身元の確認(かくにん)には(いた)りませんでした。
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脇田(わきた)美智枝(みちえ)さんの遺骨(いこつ)確認(かくにん)を伝える新聞記事

1971(昭和46)年11月17日付中国新聞
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定期入れと硬貨(こうか)

爆心地(ばくしんち)から約1,200m/
雑魚場(ざこば)町(現在(げんざい)国泰寺町(こくたいじちょう)

広島女子高等師範(しはん)学校附属(ふぞく)山中(やまなか)高等女学校2年生の脇田(わきた)美智枝(みちえ)さん(当時14(さい))は建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)しました。美智枝(みちえ)さんは9日に金輪島(かなわじま)死亡(しぼう)し、遺体(いたい)似島(にのしま)に運ばれました。父親の彦一(ひこいち)さんは10日に似島(にのしま)(わた)り、数本の遺髪(いはつ)を受け取りました。この発掘(はっくつ)で見つかった定期入れの「脇田枝(わきた)美智枝(みちえ) 14(さい)」の文字から身元が判明(はんめい)し、26年ぶりに遺骨(いこつ)確認(かくにん)されました。
似島(にのしま)における遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)など 写真
時 期 内 容(ないよう)
1947 (昭和22)年
11月
千人塚(せんにんづか)」など似島(にのしま)の各地から遺骨(いこつ)収集(しゅうしゅう)し、似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)に広島市戦災(せんさい)死没者(しぼつしゃう)似島(にのしま)供養塔(くようとう)を建立
1955 (昭和30)年
8月
平和記念公園に新しく完成した原爆(げんばく)供養塔(くようとう)似島(にのしま)供養塔(くようとう)遺骨(いこつ)約2,000柱を移設(いせつ)
1971 (昭和46)年
10~11月
似島(にのしま)中学校農業(のうぎょう)実習地(じっしゅうち)推定(すいてい)617体の遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)翌年(よくねん)11月似島(にのしま)原爆(げんばく)慰霊碑(いれいひ)発掘(はっくつ)場所近くに建立
1981 (昭和56)年
5月
証言(しょうげん)(もと)づき、似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)の入り()発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)遺体(いたい)埋葬(まいそう)したという(どう)くつは発見されず作業(さぎょう)終了(しゅうりょう)
1990 (平成2)年
9~11月
似島町(にのしまちょう)(あざ)大黄(だいおう)市営住宅(しえいじゅうたく)解体工事中(かいたいこうじちゅう)元馬匹検疫所(もとばひつけんえきじょ)馬体焼却炉(ばたいしょうきゃくろ)遺構(いこう)を発見、スコップ300(ぱい)分の骨灰(こっかい)骨片(こっぺん)発掘(はっくつ)遺構(いこう)翌年(よくねん)3月広島市似島(にのしま)臨海(りんかい)少年自然の家に移設(いせつ)して保存(ほぞん)


1971(昭和46)年に似島(にのしま)中学校で発掘(はっくつ)された遺品(いひん)の一部

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67 変形した弁当箱(べんとうばこ)
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68 腕時計(うでどけい)
 
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69 ナイフ
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70 指輪の一部
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71 歯ブラシ
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73 (くし)
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75 水筒(すいとう)
 
 
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72 (くつ)の底
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74 財布(さいふ)硬貨(こうか)
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76 ベルト
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77 似島(にのしま)原爆(げんばく)慰霊碑(いれいひ)
似島(にのしま)中学校での遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)の1周年に、犠牲者(ぎせいしゃ)(れい)(なぐさ)め平和への(ちか)いを新たにするため、発掘場所(はっくつばしょ)隣接地(りんせつち)に建てられたものです。
 


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 ●遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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