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■死者を送る
負傷者(ふしょうしゃ)被爆(ひばく)当日から次々と()くなっていきました。死体についた名札を取り、遺髪(いはつ)遺品(いひん)とともに封筒(ふうとう)に入れ名前を書いて保管(ほかん)し、死体は検疫所(けんえきじょ)構内(こうない)や周辺で何体も積み重ねてだびに付されました。しかしあまりの死者の多さに、火葬(かそう)が間に合わなくなり、(がけ)()った横穴式(よこあなしき)防空(ぼうくう)ごうに入れて埋葬(まいそう)されたこともありました。

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運び出す間もなく
コモをかけられたままの
死体
1945(昭和20)年8月6日/
似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

「兵隊さんが死人を運ぶのも間に合いません。死人にはコモをかけて順番を待ちます。死人の山を作り、油をかけ、火をつけた時は、火の海でした。これが人間の最期だと思うと、只々(ただただ)(なみだ)合掌(がっしょう)する外ありませんでした。」
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桟橋(さんばし)に着いた死体を運ぶ兵士たち

1945(昭和20)年8月7日午前10時ころ/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

桟橋(さんばし)の方を見ると大きな船で次々と死人を運んで来て、我々(われわれ)に見えないよう、担架(たんか)(かた)の高さにして山陰(やまかげ)へ。ついて行こうとすると『これより立ち入り禁止(きんし)』と言われ、(なみだ)を流して合掌(がっしょう)する。」
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数知れぬ死者を火葬(かそう)する

1945(昭和20)年8月8日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

病棟(びょうとう)の近くに大きなごうを()り、死者を山積みのまま油をかけて火葬(かそう)する。その(けむり)はモクモクと天に(のぼ)り、氏名の確認(かくにん)などするすべもなきまま、その異臭(いしゅう)幾日(いくにち)となく続いた。」
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千人塚(せんにんづか)」と墨書(ぼくしょ)された墓標(ぼひょう)
1945(昭和20)年10月17日/似島町(にのしまちょう)(あざ)南風泊(はえどまり)
この墓標(ぼひょう)は、馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)近くの南風泊(はえどまり)の海岸にあったもので、1945(昭和20)年8月25日ころ、検疫所(けんえきじょ)職員(しょくいん)によって慰霊祭(いれいさい)を行い建立されました。当時は死者を埋葬(まいそう)した形跡(けいせき)がいたる所で見られました。
 
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男の子、女の子、おばあちゃん


似島(にのしま)()くなった人とその遺品(いひん)

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29 堀弘明さん
  (当時13(さい)
 
30 半ズボン
爆心地(ばくしんち)から約1,200m
雑魚場町(ざこばちょう)現在(げんざい)国泰寺町(こくたいじちょう)
県立広島第一中学校1年生の堀弘明さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)し、似島(にのしま)に運ばれました。父親の輝人さんは、「一中の生徒はいませんか」とたずね回り、やけどで変わり果てた姿(すがた)の弘明さんを、この半ズボンの名前で確認(かくにん)しました。弘明さんは、10日夜に()くなりました。
 
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31 柳生高江さん
  (
当時13(さい)
32 モンペの一部
爆心地(ばくしんち)から1,200m
雑魚場町(ざこばちょう)現在(げんざい)国泰寺町(こくたいじちょう)
広島女子高等師範(しはん)学校附属(ふぞく)山中高等女学校2年生の柳生高江さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)し、12日に母親の尚子さんが似島(にのしま)で見つけました。顔は大きく(ふく)れ、焼けた衣服の切れ(はし)がかろうじて体についている状態(じょうたい)で、14日朝に()くなりました。高江さんの皮膚(ひふ)()()いていたこのモンペを切り取って形見にしました。
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33 興津正和さん
  (
当時12(さい)
 
34 学徒隊章
爆心地(ばくしんち)から600m
中島新町(現在(げんざい)の中島町)
県立広島第二中学校1年生の興津正和さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)しました。一カ月後、似島(にのしま)火葬(かそう)された正和さんの遺骨(いこつ)遺品(いひん)が家族の元に(とど)きました。「行ってまいります」と手を上げて元気に出かけた姿(すがた)が、家族が正和さんを見た最後になりました。
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35 山根了さん
  (
当時13(さい)
 
36 スボン
爆心地(ばくしんち)から500m
材木町(現在(げんざい)の中島町)
市立造船工業(ぞうせんこうぎょう)学校1年生の山根了さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)し、全身にやけどを負いました。似島(にのしま)に運ばれ、兄の亨さんが懸命(けんめい)看病(かんびょう)しましたが、7日午前6時に()くなりました。亨さんが持ち帰ったこのズボンが遺骨(いこつ)代わりとなりました。
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37 大西蜜禅さん
  (
当時42(さい)
38 学童(がくどう)疎開中(そかいちゅう)
   息子さんに()てた手紙
比治山(ひじやま)方面に行く途中(とちゅう)被爆(ひばく)、所持品と遺骨(いこつ)似島(にのしま)から送られてくる。
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39 小川節子さん
  (
当時21(さい)
40 モンペの上着
爆心地(ばくしんち)から約790m 基町(もとまち)
勤務先(きんむさき)の中国軍管区司令部の外で被爆(ひばく)似島(にのしま)収容(しゅうよう)され、11日に死亡(しぼう)
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41 鍋島重雄さん
  (
当時37(さい)
42 懐中(かいちゅう)時計(どけい)
爆心地(ばくしんち)から約1,100m
水主町(現在(げんざい)の加古町)
特設(とくせつ)警備隊(けいびたい)の隊長として、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)し、似島(にのしま)収容(しゅうよう)され、死亡(しぼう)
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43 長岡昇さん
  (
当時37(さい)
44 罹災(りさい)証明書(しょうめいしょ)
大手町八丁目付近で被爆(ひばく)し、似島(にのしま)収容(しゅうよう)され、20日に死亡(しぼう)


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 ●死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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