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おばあちゃん、男の子、女の子
はじめに

広島の沖合(おきあい)似島(にのしま)という小さな島があります。
日清戦争の時、ここに陸軍の検疫所(けんえきじょ)(もう)けられ、
戦地から(もど)ってきた兵士たちが
初めて日本に上陸する地の一つとなりました。
原爆(げんばく)投下(とうか)直後、検疫所(けんえきじょ)臨時(りんじ)野戦(やせん)病院(びょういん)となり、
20日間に約1万人の負傷者(ふしょうしゃ)が広島から搬送(はんそう)されました。
似島(にのしま)()くなった多くの人が埋葬(まいそう)され、
その遺骨(いこつ)が戦後発掘(はっくつ)されています。
この企画展(きかくてん)では、被爆(ひばく)前の検疫所(けんえきじょ)役割(やくわり)
被爆(ひばく)直後の臨時(りんじ)野戦(やせん)病院(びょういん)状況(じょうきょう)
戦後の遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)などを紹介(しょうかい)しています。

地図 似島(にのしま)は、宇品(うじな)沖合(おきあい)約4kmに位置し、面積3.87km2、島の外周は約16km、被爆(ひばく)当時の人口は、1,751人でした。島で最も標高の高い安芸(あき)小富士(こふじ)は278.1mあります。広島湾(ひろしまわん)()かぶ自然(ゆた)かな美しい島です。1929(昭和4)年4月、広島市と仁保村(にほむら)合併(がっぺい)により、広島市になりました。



■軍都広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
1894(明治27)年の日清戦争を機に、山陽鉄道の西端(せいたん)宇品港(うじなこう)を持つ広島は、大陸への軍事(ぐんじ)輸送(ゆそう)基地(きち)となりました。以後広島には軍事(ぐんじ)施設(しせつ)が集中し、軍都として発展(はってん)します。日清戦争が終わると、中国大陸からの帰還兵(きかんへい)検疫(けんえき)を行うため、急きょ、似島(にのしま)(広島)・彦島(ひこしま)(下関)/桜島(さくらじま)大阪(おおさか))の3カ所に検疫所(けんえきじょ)(もう)けられました。
似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)は、1日に数千人もの検疫(けんえき)実施(じっし)できる大規模(だいきぼ)施設(しせつ)でした。

写真 1
大陸への軍事(ぐんじ)輸送(ゆそう)基地(きち)となった宇品港(うじなこう)
1916(大正5)年/宇品町(うじなちょう)
2
似島(にのしま)(もう)けられた
検疫所(けんえきじょ)
(第二消毒所)
1905(明治38)年ころ
1895(明治28)年、似島町(にのしまちょう)(あざ)長谷(はせ)臨時(りんじ)陸軍(りくぐ)検疫所(けんえきじょ)(もう)けられました。宇品港(うじなこう)に近く、大型船の停泊(ていはく)(てき)し、水利がよく、広い土地が確保(かくほ)できるため、建設地(けんせつち)として選ばれたのです。日露(にちろ)戦争(せんそう)時には、似島町(にのしまちょう)(あざ)東大谷(ひがしおおたに)に第二消毒所が増設(ぞうせつ)されました。検疫 所(けんえきじょ)では、陸軍が太平洋戦争の終結まで、戦後は、厚生省(こうせいしょう)が1958(昭和33)年まで、検疫(けんえき)業務(ぎょうむ)を行いました。
写真
写真 3
衣類や装具(そうぐ)などの消毒機

似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

検疫所(けんえきじょ)は、1日数千人の検疫(けんえき)可能(かのう)で、衣服や持ち物を効率的(こうりつてき)滅菌(めっきん)・消毒するための最新の巨大(きょだい)な消毒機がありました。
写真 4
似島(にのしま)への上陸のため
はしけ(ふね)()()
兵士たち

似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)沖合(おきあい)
おばあちゃん、男の子、女の子
写真
検疫(けんえき)期間(きかん) 検疫(けんえき)船舶(せんぱく)(せき) 人員(人)
1895.6.1~1896.1.11 (日清戦争) 441 96,168
1904.1.1~1906.6.14 (日露戦争(にちろせんそう) 1,753 663,443
1914.12.2~1915.1.1 (第一次世界大戦) 95 45,564
1918.11.10~1922.10.29 (シベリア出兵) 296 152,188
1927.9 (山東出兵)   約7,000
1928.7.19~1929.5.13 (第二次山東出兵) 44 27,947
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入浴する兵士たち

似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

衣類(いるい)などが消毒されている間、兵士は診察(しんさつ)を受け入浴しました。伝染病(でんせんびょう)(うたが)いがあれば、付属(ふぞく)病院(びょういん)収容(しゅうよう)され、同じ船で(もど)ってきた兵士も、検疫所(けんえきじょ)隔離(かくり)されました。
陸軍(りくぐん)似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)における
日清戦争から昭和初期の検疫(けんえき)実績(じっせき)

1931(昭和6)年の満州事変以降(いこう)も、多くの部隊が、宇品(うじな)から中国大陸に出兵し、傷病兵(しょうびょうへい)や交代の部隊が、宇品(うじな)帰還(きかん)しています。これら部隊は、似島(にのしま)において検疫(けんえき)を受けました。
6
1945(昭和20)年8月
当時の似島(にのしま)軍事(ぐんじ)施設(しせつ)

東大谷に似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)、大黄・南風泊(はえどまり)馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)がありました。太平洋戦争末期、帰還(きかん)部隊(ぶたい)はめっきり減少(げんしょう)し、本来の検疫(けんえき)業務(ぎょうむ)はほとんど行われなくなっていました。検疫所(けんえきじょ)には船舶(せんぱく)防疫部(ぼうえきぶ)の約70人、船舶(せんぱく)衛生隊(えいせいたい)の約80人が駐屯(ちゅうとん)していました。
地図上
地図下


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 ●軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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