■
被爆
(
ひばく
)
直後の
救援
(
きゅうえん
)
活動
(
かつどう
)
原爆
(
げんばく
)
が投下され、市役所や
県庁
(
けんちょう
)
は
機能
(
きのう
)
を失い、交通や通信もまひしました。その中でいち早く
救援
(
きゅうえん
)
活動
(
かつどう
)
を始めたのは、
宇品
(
うじな
)
の
陸軍
(
りくぐん
)
船舶
(
せんぱく
)
司令部
(
しれいぶ
)
所属
(
しょぞく
)
部隊
(
ぶたい
)
(
暁
(
あかつき
)
部隊
(
ぶたい
)
)でした。
暁
(
あかつき
)
部隊
(
ぶたい
)
は、川を船でさかのぼって消火・
救難
(
きゅうなん
)
にあたり、
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
を
宇品
(
うじな
)
に
搬送
(
はんそう
)
し、さらに
似島
(
にのしま
)
や金輪島などに運びました。
似島
(
にのしま
)
検疫所
(
けんえきじょ
)
には、薬や
衛生
(
えいせい
)
材料
(
ざいりょう
)
など約5,000人分の
備蓄
(
びちく
)
があり、
原爆
(
げんばく
)
による建物の
被害
(
ひがい
)
もほとんどありませんでした。
似島
(
にのしま
)
が
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
のための
臨時
(
りんじ
)
収容
(
しゅうよう
)
施設
(
しせつ
)
となったのは、ごく自然のことでした。
11
宇品
(
うじな
)
桟橋
(
さんばし
)
で
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
を船に運ぶ
兵士たち
1945(昭和20)年8月7日午後/
爆心地
(
ばくしんち
)
から4,700m
宇品町
(
うじなちょう
)
宇品
(
うじな
)
桟橋
(
さんばし
)
には中心部から
逃
(
のが
)
れてきたものの、
力尽
(
ちからつ
)
きて
亡
(
な
)
くなった人の死体が山のように積まれていました。
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
でいっぱいの船は、次々と
宇品
(
うじな
)
を
離
(
はな
)
れ、
似島
(
にのしま
)
に向かいました。
12
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
をトラックに乗せて運ぶ
1945(昭和20)年8月6日 午後5時ころ/
爆心地
(
ばくしんち
)
から約1,700m
比治山橋
(
ひじやまばし
)
付近
(
ふきん
)
市内中心部はがれきの山となり、
猛烈
(
もうれつ
)
な
火災
(
かさい
)
で車の通行は
困難
(
こんなん
)
でした。かろうじて、
逃
(
に
)
げのびた人々のうち、
重傷
(
じゅうしょう
)
の人は軍のトラックで
宇品
(
うじな
)
などに運ばれました。
14(上)
似島
(
にのしま
)
検疫所
(
けんえきじょ
)
の見取図
15(左下)
馬匹
(
ばひつ
)
検疫所
(
けんえきじょ
)
の見取図
13(右下)
検疫所
(
けんえきじょ
)
付近
(
ふきん
)
の
空撮
(
くうさつ
)
写真
(
しゃしん
)
1945(昭和20)年8月7日
米軍が高度約9,000m上空から
撮影
(
さつえい
)
した写真のうち
検疫所
(
けんえきじょ
)
付近
(
ふきん
)
を
拡大
(
かくだい
)
したものです。当時の建物や
桟橋
(
さんばし
)
、そして
桟橋
(
さんばし
)
に向かう船などを見ることができます。
似島
(
にのしま
)
が伝える
原爆被害
(
げんばくひがい
)
犠牲者
(
ぎせいしゃ
)
たちの
眠
(
ねむ
)
った島
●
軍都
(
ぐんと
)
広島と
似島
(
にのしま
)
検疫所
(
けんえきしょ
)
●
原子爆弾
(
げんしばくだん
)
の
投下
(
とうか
)
●
被爆直後
(
ひばくちょくご
)
の
救援
(
きゅうえん
)
活動
●
似島
(
にのしま
)
にあふれる
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
●苦しみ水を
求
(
もと
)
める声、
身内
(
みうち
)
を
捜
(
さが
)
して歩く人々
●
死者
(
ししゃ
)
を送る
●
臨時
(
りんじ
)
野戦病院の
閉鎖
(
へいさ
)
とその後の
検疫所
(
けんえきしょ
)
●
原爆
(
げんばく
)
孤児
(
こじ
)
たち
●
遺骨
(
いこつ
)
の
眠
(
ねむ
)
る
似島
(
にのしま
)
おわりに/
御協力
(
ごきょうりょく
)
いただいた方々・
機関
(
きかん
)
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