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検疫所(けんえきじょ)惨状(さんじょう)

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「船から被爆(ひばく)なさった方々が、次々と検疫所(けんえきじょ)に上がって来られました。顔は焼けて真っ黒、両眼(りょうめ)は飛び出し、(くちびる)はどす黒くはれ、衣服は焼け、(はだか)同様(どうよう)でした。手はちょうど手袋(てぶくろ)をぶらさげたようにして()れ上がり、皮膚(ひふ)がダラリとぶらさがっていました。」
梅宮日出子氏(元陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)衛生隊(えいせいたい)事務(じむ)職員(しょくいん)
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第三桟橋(さんばし)から見た検疫所(けんえきじょ)
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爆風(ばくふう)でこわれた(まど)ガラス
1945(昭和20)年10月17日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
(わたし)たちは、交替(こうたい)不寝番(ふしんばん)に立ち懐中(かいちゅう)電灯(でんとう)を持って、患者(かんじゃ)のようすを見てまわり、不思議なことを発見しました。歯茎(はぐき)から血がにじみ出ている者、顔や手足、体のいたるところに斑点(はんてん)を出している者を見つけたのです。」
吉原利男氏(元陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)衛生隊(えいせいたい)衛生(えいせい)上等兵(じょうとうへい)) 

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 血液(けつえき)検査(けんさ)などに
 使用された
 顕微鏡(けんびきょう)
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手術(しゅじゅつ)に使用された外科器械


「病院の手術室(しゅじゅつしつ)では、三日三晩(みばん)()(ひま)()しんで手足の切断(せつだん)手術(しゅじゅつ)をしました。4日の朝には、5,000人分の麻酔薬(ますいやく)衛生(えいせい)材料(ざいりょう)が全部なくなりました。まだ150人の手術(しゅじゅつ)患者(かんじゃ)がいるのに、あと3人分の()い合わせ糸しかありません。」
西村幸之助氏(元陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)衛生隊(えいせいたい)軍医(ぐんい)大尉(たいい))  
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「8月15日に、患者(かんじゃ)にも終戦を伝えました。悲しい顔も安心した顔もなく、つぶれた目から(なみだ)だけが流れていました。何のために、この多くの人たちが(きず)つけられたのか。この時のくやしさは、とても言葉では表せません。」
小原好隆氏(元陸軍(りくぐん船舶(せんぱく衛生隊(えいせいたい衛生(えいせい軍曹(ぐんそう)
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熱線によるやけどを負った負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月7日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
写真 写真
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熱線によるやけどを負った負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月7日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
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熱線によるやけどを負った負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月7日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
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熱線によるやけどを負った負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月7日~20日ころ/収容所(しゅうようじょ)不明(ふめい)
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熱線によるやけどを負った
負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年
8月7日~20日ころ/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
写真
「焼けただれた死体は強烈(きょうれつ)なにおいで、もうウジ虫がいっぱいはい回っていました。タンカに乗せて馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)近くの待避壕(たいひごう)に運びました。人を焼く(けむり)が、何日も何日も立ち昇(たちのぼ)り、焼けるにおいは島を包んでいるようでした。」
笠江春美氏(元陸軍(りくぐん)船舶(せんぱく)練習部(れんしゅうぶ)第十教育隊(きょういくたい)船舶(せんぱく)特別(とくべつ)幹部(かんぶ)候補生(こうほせい)
女の子、男の子、おばあちゃん


臨時(りんじ)野戦(やせん)病院(びょういん)閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきじょ)
病院が開設(かいせつ)された8月6日から25日までの間、約1万人の患者(かんじゃ)似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)で受け入れたと推定(すいてい)されています。また宇品(うじな)や金輪島、己斐(こい)などから死体が運ばれ似島(にのしま)埋葬(まいそう)されたとの証言(しょうげん)もあります。検疫所(けんえきじょ)は軍の施設(しせつ)であり、長期療養(りょうよう)には不向きのため、収容(しゅうよう)された人は、12日くらいから、五日市、廿日市(はつかいち)、宮島、大竹などに(うつ)されていきました。25日、似島(にのしま)に残っていた500人(あま)りの患者(かんじゃ)が広島県の職員(しょくいん)により転送され、病院は閉鎖(へいさ)されました。検疫所(けんえきじょ)は、戦後は、1946(昭和21)年から厚生省(こうせいしょう)引揚(ひきあげ)援護局(えんごきょく)、そして、厚生省(こうせいしょう)宇品(うじな)検疫所(けんえきじょ)(後に厚生省(こうせいしょう)広島検疫所(けんえきじょ)改称(かいしょう))の施設(しせつ)として、検疫(けんえき)業務(ぎょうむ)が行なわれました。1958(昭和33)年建物の老朽化(ろうきゅうか)などにより、検疫所(けんえきじょ)としての役割(やくわり)を終えました。

写真 54
名前の分からない中学生の遺骨(いこつ)
()が子と思ってわけてもらう
1945(昭和20)年9月15日/広島市役所

似島(にのしま)収容(しゅうよう)されたらしいと聞き、島に(わた)ったが、何の跡形(あとかた)もなかった。市役所に行き、たくさんの収容者(しゅうようしゃ)名簿(めいぼ)(さが)した。似島(にのしま)収容者(しゅうようしゃ)名簿(めいぼ)の中にただ一人、『名不明、二中一年生』とあった。これかもしれないと思い、ひとにぎりの(ほね)を箱の中からもらい、ハンカチに包んだ。この大きな背骨(せぼね)は子どものではないと思うと(なみだ)があふれた。」


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 ●臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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