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原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
戦争が終わっても、人々の困難(こんなん)()らしは変わりません。特に悲惨(ひさん)だったのは、原爆(げんばく)により肉親を失った子どもたちでした。原爆(げんばく)孤児(こじ)の数は2,000人から6,500人といわれています。広島市周辺では1947(昭和22)年末現在(げんざい)で5つの収容(しゅうよう)施設(しせつ)がありました。似島(にのしま)には陸軍(りくぐん)施設(しせつ)跡地(あとち)に、広島県戦災児(せんさいじ)教育所(きょういくじょ)似島(にのしま)学園(がくえん)誕生(たんじょう)しました。戦後の(きび)しい状況(じょうきょう)のなかで、学園の運営(うんえい)困難(こんなん)を極めましたが、似島(にのしま)の人々をはじめ、国内外からの援助(えんじょ)を受け、多くの園児が社会に巣立っていきました。

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似島(にのしま)学園(がくえん)開設時(かいせつじ)の子どもたち
1946(昭和21)年9月3日/似島(にのしま)学園(がくえん) 似島町(にのしまちょう)(あざ)長谷(はせ)
広島駅付近で()らしていた孤児(こじ)34名が保護(ほご)され、陸軍の倉庫を改造(かいぞう)した施設(しせつ)で、子どもたちの新しい生活が始まりました。
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農作業をする園児たち
似島(にのしま)学園(がくえん) 似島町(にのしまちょう)(あざ)長谷(はせ)
国のわずかな援助(えんじょ)開設(かいせつ)した学園は、自給自足の苦しい生活でした。食料(しょくりょう)確保(かくほ)のために、子どもたちも地引(じび)(あみ)を引き、貝掘(かいほ)り、農作業などをして働きました。
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海外から送られた「ララ物資(ぶっし)

LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認(こうにん)アジア救済(きゅうさい)連盟(れんめい))は米国・カナダ・中南米の各地から集まった善意(ぜんい)資金(しきん)物資(ぶっし)を日本に送るための窓口(まどぐち)となった団体(だんたい)で、1946(昭和21)年から1952(昭和27)年までの間、食料・衣料・医薬品などが、窮乏(きゅうぼう)する日本の子どもたちに(とど)けられました(写真は似島(にのしま)学園(がくえん)に送られた食用油)。
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似島(にのしま)学園(がくえん)訪問(ほうもん)し、
園児の出迎(でむか)えを受ける
ノーマン・カズンズ氏
1951(昭和26)年1月9日/似島(にのしま)学園(がくえん) 似島町(にのしまちょう)(あざ)長谷(はせ)
精神(せいしん)養子(ようし)運動(うんどう)は、雑誌(ざっし)「土曜文学(ぶんがく)評論(ひょうろん)(1949(昭和24)年9月17日号)」でノーマン・カズンズ氏が提唱(ていしょう)し、1950(昭和25)年から1959(昭和34)年まで続きました。これは善意(ぜんい)のアメリカ人が孤児(こじ)縁組(えんぐみ)を結び、毎月2.5ドル(900円)を送ることによって子どもの成長を(ささ)えるもので、約500人が精神(せいしん)養子(ようし)となり、総額(そうがく)約2,000万円の援助(えんじょ)が行われました。この運動に刺激(しげき)されて、国内(こくない)精神(せいしん)養子(ようし)運動(うんどう)も進められました。
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似島(にのしま)が伝える原爆(げんばく)被害(ひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆(ひばく)直後(ちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 ●原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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