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原子(げんし)爆弾(ばくだん)の投下
1945(昭和20)年8月6日、米軍のB29爆撃機(ばくげきき)「エノラ・ゲイ」は,広島市上空に侵入(しんにゅう)し、高度9,600mから原子(げんし)爆弾(ばくだん)を投下しました。きのこ雲の下で、街は壊滅(かいめつ)し、多くの負傷者(ふしょうしゃ)が助けを求めていましたが,似島(にのしま)の人々がその状況(じょうきょう)を知るのは、およそ2時間も後のことでした。似島(にのしま)の島民では、市内に通勤(つうきん)・通学していた人など、被爆(ひばく)1カ月後までに108人が原爆(げんばく)犠牲(ぎせい)になりました。

写真 写真
7(右→)
立ち上るきのこ雲
1945(昭和20)年8月6日 爆発(ばくはつ)約15分後
爆心地(ばくしんち)から約6km 金輪島

8(上↑)
原爆(げんばく)を投下した瞬間(しゅんかん)敵機(てっき)似島(にのしま)から見る
1945(昭和20)年8月6日/
船舶(せんぱく)衛生隊(えいせいたい)本部(ほんぶ)将校(しょうこう)宿舎(しゅくしゃ) 似島町(にのしまちょう)(あざ)東大谷(ひがしおおたに)

敵機(てっき)の後部が『ピカッ』と光り、『何か落としたな』と思った。それから約1、2秒後にすぐ近くに大型(おおがた)爆弾(ばくだん)が落ちたような大きな音がした。」
写真 9
ピカッと光ると同時に
あたりが真っ暗になった
1945(昭和20)年8月6日/
似島(にのしま)国民(こくみん)学校

似島(にのしま)爆心地(ばくしんち)からの至近(しきん)距離(きょり)は島の北端(ほくたん)で約8.3km、最も遠い地点は島の南端(なんたん)で約11.5kmでした。当時の似島(にのしま)国民(こくみん)学校は、島の西側・似島町(にのしまちょう)(あざ)家下(いえした)にありました。
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似島(にのしま)から見たきのこ雲

1945(昭和20)年8月6日/似島町(にのしまちょう)(あざ)大黄(だいおう)

何万個(なんまんこ)のフラッシュを一度につけたような白銀色の光線がひろがり、地軸(ちじく)をゆすり上げるような大音響(だいおんきょう)がとどろき、巨大(きょだい)(けむり)の柱が上空に(のぼ)っていった。空襲(くうしゅうう)警報(けいほう)のサイレンが鳴りひびき、大型機が上空高く南方に飛び去って行った。」
写真
女の子、男の子、おばあちゃん


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 ●原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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