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似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
負傷者(ふしょうしゃ)似島(にのしま)に最初に到着(とうちゃく)したのは、8月6日午前10時ころのことでした。検疫所(けんえきじょ)では、臨時(りんじ)野戦(やせん)病院(びょういん)開設(かいせつ)し、受け入れ準備(じゅんび)をしていましたが、その数と惨状(さんじょう)は予想をはるかに()えるものでした。昼前には江田島(えたじま)船舶(せんぱく)練習部(れんしゅうぶ)第十教育隊から100人、夕方には宇品(うじな)と金輪島の野戦(やせん)船舶(せんぱく)本廠(ほんしょう)より100人を増員(ぞういん)して救護(きゅうご)を行いましたが、負傷者(ふしょうしゃ)の多さに、夜に1,000人の患者(かんじゃ)似島(にのしま)からさらに別の収容所(しゅうようじょ)(うつ)されるありさまでした。

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負傷者(ふしょうしゃ)でいっぱいになった検疫所(けんえきじょ)

1945(昭和20)年8月6日 午後/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

病棟(びょうとう)になった検疫所(けんえきじょ)附属(ふぞく)病院(びょういん)や停留舎は、(はこ)()まれる負傷者(ふしょうしゃ)でいっぱいになったため馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)の馬小屋にも、コンクリートの(ゆか)毛布(もうふ)()き、負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)されました。
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船で似島(にのしま)搬送(はんそう)される負傷者(ふしょうしゃ)と死者

1945(昭和20)年8月6日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

宇品(うじな)より負傷者(ふしょうしゃ)が発動機船や伝馬船で運ばれて来ました。ロープに身体をしばりつけて水面下をえい航されて来た死者もありました。真っ白になった顔が海水に(あら)われている姿(すがた)をいつも思い出します。」
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臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)となった似島(にのしま)説教場(せっきょうじょう)

似島町(にのしまちょう)(あざ)家下(いえした)

「昭和16年広島市防空(ぼうくう)計画(けいかく)」では、似島(にのしま)説教場(せっきょうじょう)が地区の臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)に指定され、300人の収容(しゅうよう)を予定していました。ここにも負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)され、婦人会(ふじんかい)を中心とする島民が救護(きゅうご)活動(かつどう)を行いましたが、十分な治療(ちりょう)ができないため、負傷者(ふしょうしゃ)は、随時(ずいじ)検疫所(けんえきじょ)搬送(はんそう)されました。
写真 19
負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)された停留舎

1945(昭和20)年10月17日/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)

病棟(びょうとう)になった検疫所(けんえきじょ)附属(ふぞく)病院(びょういん)や停留舎は、(はこ)()まれる負傷者(ふしょうしゃ)でいっぱいになったため馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)の馬小屋にも、コンクリートの(ゆか)毛布(もうふ)()き、負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)されました。


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 ●似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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