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■苦しみ水を求める声、身内を(さが)して歩く人々
薬や衛生(えいせい)材料(ざいりょう)はすぐに底をつき、十分な手当ては困難(こんなん)状況(じょうきょう)でした。傷口(きずぐち)にはハエがたかり、ウジがわき、動けない人々を苦しめました。皮下出血による紫斑(しはん)歯茎(はぐき)からの出血、高熱、脱毛(だつもう)など放射線(ほうしゃせん)急性(きゅうせい障害(しょうがい)(あらわ)(はじ)め、()くなる人が相次ぎました。負傷者(ふしょうしゃ)似島(にのしま)搬送(はんそう)されたことを知り、多くの人が家族や知人を(さが)して似島(にのしま)(おとず)れました。服も焼けて、見分けのつかない負傷者(ふしょうしゃ)の中を、「○○町の××はいませんか?」と()ぶ声が、病棟(びょうとう)(ひび)きました。

女の子、男の子 写真
  20
両親と(はな)(ばな)れになり放心した男の子、死んだ赤ん坊(あかんぼう)
(ちち)(ふく)ませようとする母親、家族への連絡(れんらく)(たの)む中学生
1945(昭和20)年8月7日朝/馬匹(ばひつ)検疫所(けんえきじょ)
「息の()えた赤ちゃんを()いてお(ちち)(ふく)ませようとしておられた(わか)い母親、この方も翌日(よくじつ)なくなられたそうです。尼崎(あまがさき)出身(しゅっしん)の広島二中の生徒さんは、自分がここにいることを家へ知らせてねと何度も言っていました。」
写真 21
使用後廃棄(はいき)された
薬びん

1945(昭和20)年10月17日/
似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
おばあちゃん
写真 22
熱線によるやけどを
負った負傷者(ふしょうしゃ)

1945(昭和20)年8月7日/
似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
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「連れて帰ってください」と
ズボンのすそをつかんで(たの)む中学生
(人づてに聞いた()が子の最期)
1945(昭和20)年8月8日午前/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
「『おじさん、矢野に連れて帰って下さい。お願いします。(たの)みます。』と何度もお願いしたとのこと、午後1時()ぎには『おとうさん、おかあさん』と()んで()の世の人となりました。夕方(わたし)は知りました。」
写真
写真 24
出撃(しゅつげき)のため敬礼(けいれい)をして去る
(わか)特攻隊(とっこうたい)の兵士
1945(昭和20)年8月8日ころ/似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
「まだ(わか)い兵隊さん3人が『これより○○に行きます』と、(みな)さんに敬礼(けいれい)して行かれました。特攻隊(とっこうたい)の人で江田島(えたじま)から出動されるとか。暗い真黒な中で冷凍(れいとう)ミカンを手さぐりでくださいました(やさ)しさ…できることならば再会(さいかい)したい思いです。」


 
似島(にのしま)が伝える原爆被害(げんばくひがい)
犠牲者(ぎせいしゃ)たちの(ねむ)った島

 軍都(ぐんと)広島と似島(にのしま)検疫所(けんえきしょ)
 原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)
 被爆直後(ひばくちょくご)救援(きゅうえん)活動
 似島(にのしま)にあふれる負傷者(ふしょうしゃ)
 ●苦しみ水を(もと)める声、身内(みうち)(さが)して歩く人々
 死者(ししゃ)を送る
 臨時(りんじ)野戦病院の閉鎖(へいさ)とその後の検疫所(けんえきしょ)
 原爆(げんばく)孤児(こじ)たち
 遺骨(いこつ)(ねむ)似島(にのしま)
 おわりに/御協力(ごきょうりょく)いただいた方々・機関(きかん)

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