こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

学校の再開(さいかい)

 1945年(昭和20年)8月15日、終戦をむかえました。しかし、すぐに集団(しゅうだん)疎開(そかい)児童(じどう)の引き()げが行われたわけではありませんでした。被爆(ひばく)後の混乱(こんらん)の中、徐々(じょじょ)に引き()げが始まりましたが、12月までかかった国民学校もありました。
 爆心地(ばくしんち)から半径2キロメートル以内の国民学校は、ほとんどが全壊(ぜんかい)する大きな被害(ひがい)を受けました。校舎(こうしゃ)を失った国民学校は、他の国民学校や国民学校以外の建物を借用したり、()(あと)で青空教室を行うなどして、授業(じゅぎょう)再開(さいかい)に努めました。多くの国民学校が9月から10月にかけて授業(じゅぎょう)再開(さいかい)しました。
 戦時中の軍国(ぐんこく)主義(しゅぎ)教育は否定(ひてい)され、民主(みんしゅ)主義(しゅぎ)基本(きほん)とした教育に転換(てんかん)されました。戦争に関係する部分などを削除(さくじょ)した(すみ)()り教科書が使用され、戦時中に行われていた国史や地理、武道(ぶどう)などの授業(じゅぎょう)は停止されました。1947年(昭和22年)4月から、国民学校は現在(げんざい)の学校教育法に(もと)づく小学校となりました。

青空教室

原爆(げんばく)により校舎(こうしゃ)を失った学校では、他校の教室を借りて授業(じゅぎょう)をしたり、屋外で授業(じゅぎょう)をしたりしました。建物が全壊(ぜんかい)した幟町(のぼりまち)国民学校でも、焼野原の学校(あと)授業(じゅぎょう)再開(さいかい)しました。
1946年(昭和21年)6月 幟町(のぼりまち) 提供/幟町小学校

(すみ)()り教科書(復刻(ふっこく)

戦後、軍国(ぐんこく)主義(しゅぎ)的な内容(ないよう)(のぞ)かれ、教科書も(すみ)()って修正(しゅうせい)しなければなりませんでした。
所蔵/広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

(まど)天井(てんじょう)のない校舎(こうしゃ)授業(じゅぎょう)が始りました。

1996年(平成8年)7月25日 中央公論新社発行 中公愛蔵版「はだしのゲン」から


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