こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)2


()()ばされた市内電車

爆心地(ばくしんち)から約730メートルの中国配電(はいでん)(中区小町、現在(げんざい)の中国電力)から南方向を写したものです。原子(げんし)爆弾(ばくだん)爆風(ばくふう)により()()ばされ、重い路面電車も軌道(きどう)からはずれています。
1945年(昭和20年)8月9日 小町、中国配電
撮影/岸田貢宜氏 提供/岸田哲平氏

()(あと)火葬(かそう)する

爆心地(ばくしんち)から約740メートル、八丁堀(はっちょうぼり)福屋(ふくや)百貨店(ひゃっかてん)南側に仮設(かせつ)された臨時(りんじ)火葬(かそう)場です。膨大(ぼうだい)な数にのぼる遺体(いたい)処理(しょり)困難(こんなん)をきわめ、市内の()(あと)のいたるところで火葬(かそう)が行われました。
1945年(昭和20年)8月9〜12日 堀川町(ほりかわちょう)
撮影/宮武甫氏 提供/朝日新聞社

川から引き()げられた遺体(いたい)

爆心地(ばくしんち)から約1,360メートル、住吉橋(すみよしばし)東詰(ひがしづめ)下流側(かりゅうがわ)臨時(りんじ)火葬場(かそうば)に置かれた遺体(いたい)です。(ほのお)に追われて川に入った人々の多くが、力()きて()くなり流されました。この遺体(いたい)住吉橋(すみよしばし)に流れ着き引き()げられたものと思われます。
1945年(昭和20年)8月9〜12日 水主町(かこまち)現在(げんざい)住吉町(すみよしちょう)
撮影/宮武甫氏 提供/朝日新聞社

似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)救護所(きゅうごじょ)

原爆投下後(げんばくとうかご)似島(にのしま)には市内の負傷者(ふしょうしゃ)が続々と船で運ばれてきました。軍隊や島の人々が検疫所(けんえきじょ)や寺院で懸命(けんめい)救護(きゅうご)活動を行いました。()くなる人も相次ぎ、連日火葬(かそう)が続けられました。
1945年(昭和20年)8月7〜20日(ごろ) 似島町(にのしまちょう)
撮影/陸軍船舶司令部 寄贈/御園生圭輔氏

バックル

県立広島第二中学校1年生の 興津(おきつ)正和さん(当時12(さい))は、学徒動員により、爆心地(ばくしんち)から約600メートルの中島新町(現在(げんざい)の中島町)の建物疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)しました。白島北町の自宅(じたく)被爆(ひばく)した両親は、正和さんを(さが)しましたが、見つかりませんでした。 被爆(ひばく)から一カ月後、市役所に正和さんの名前が出ているとの知らせを受け、市役所に出向き、似島(にのしま)火葬(かそう)された正和さんの遺骨(いこつ)遺品(いひん)を受け取りました。
寄贈/山田紀子氏

ゲンは、がれきの山となった広島をさまよい続け、多くの負傷者(ふしょうしゃ)が運ばれた似島(にのしま)に渡りました。




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