こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

原子爆弾(げんしばくだん)投下(とうか)1

 1945年(昭和20年)8月6日 朝、夏の日差しが照りつける中、国民学校の2年生だったゲンは学校に向かいます。
 午前8時15分、原爆(げんばく)投下(とうか)。ちょうど校門の辺りに着いた時でした。ゲンは目もくらむような閃光(せんこう)を浴び、爆風(ばくふう)に吹き()ばされ、意識(いしき)を失います。幸い校門の(かげ)にいたため大けがはありませんでした。気付いた時には、家々はぺしゃんこにつぶれ、一面がれきとなった街を目の当たりにします。何が起きたのか分からないまま、ゲンは急いで家族のもとへ向かいます。街には(きず)ついた人や死体が(あふ)れていました。ゲンの家族は、爆風(ばくふう)倒壊(とうかい)した家の下敷(したじ)きとなり、火災(かさい)()()まれてしまいます。

帽子(ぼうし)

松井福市(まついふくいち)さん(当時53(さい))は、(つと)めていた広島瓦斯(がす)株式会社からの動員で、木挽町(こびきちょう)現在(げんざい)の中島町、爆心地(ばくしんち)から約550メートル)の建物疎開(そかい)作業に出かけ被爆(ひばく)しました。行方は分からないままです。(つま)のタカさんは舟入(ふないり)本町の自宅(じたく)被爆(ひばく)し、建物の下敷(したじ)きになりました。その時飛んできたのがこの帽子(ぼうし)で、福市さんの遺品(いひん)となりました。タカさんは自力で()け出せましたが、五男の敏明(としあき)さん(当時4(さい))を助けることができませんでした。火の海となった街を、タカさんはこの帽子(ぼうし)で水をかけながら()げました。
寄贈/松井タカ氏


ワンピース

金橋(かなはし)勝子さん(当時1(さい))は、寺町(爆心地(ばくしんち)から約1,000メートル)の自宅(じたく)で、母親と祖母(そぼ)とともに被爆(ひばく)しました。倒壊(とうかい)した自宅(じたく)下敷(したじ)きになりましたが、3人ともどうにかはい出し、横川橋の下に避難(ひなん)しました。母親は、勝子さんが当日着ていたこのワンピースを大切に持っていました。
寄贈/金橋勝子氏


書類入れ

古川チカさん(当時75(さい))は、爆心地(ばくしんち)から約700メートルの猫屋町(ねこやちょう)自宅(じたく)被爆(ひばく)し、全壊(ぜんかい)した建物の下敷(したじ)きになって()くなりました。この書類入れは()(あと)の金庫から見つけ出されましたが、高熱のため表面がかさかさになり(ちぢ)んでしまいました。
寄贈/古川操氏

腕時計(うでどけい)

浅枝(あさえ)千代子さん(当時36(さい))は、爆心地(ばくしんち)から約1,450メートルの稲荷町(いなりまち)被爆(ひばく)し、倒壊(とうかい)家屋(かおく)下敷(したじ)きとなり焼死しました。被爆(ひばく)から2日後、白骨化(はっこつか)した千代子さんの遺体(いたい)が発見され、歯と時計が持ち帰られました。
寄贈/河重利子氏

ゲンの父、姉、弟は倒壊(とうかい)した家の下敷(したじ)きとなり、ゲンと母の前で、見る見るうちに(ほのお)につつまれていきました。




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