こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

国民学校

 戦時(せんじ)体制(たいせい)が進んでいく中、教育も戦時色が濃厚(のうこう)になっていきました。  1941年(昭和16年)、国民学校令が出され、それまでの尋常(じんじょう)小学校は国民学校に変わりました。国民学校は国民の基礎的(きそてき)錬成(れんせい)をなす学校とされ、心身を(きた)え、国のため天皇(てんのう)のために身を(ささ)げることが求められました。
 子どもたちは将来(しょうらい)の戦争の(にな)い手であるため、学校では軍国(ぐんこく)主義(しゅぎ)教育が()し進められ、儀式(ぎしき)や学校行事、団体(だんたい)訓練(くんれん)重視(じゅうし)されました。
 また、勤労(きんろう)が教科教育とともに重視(じゅうし)され、子どもたちは農作業や土木工事に従事(じゅうじ)しなければなりませんでした。

勤労奉仕(きんろうほうし)

(はたら)(ざか)りの男の人が戦場へ()り出されると、労働力の不足を(おぎな)うために、子どもたちは土木工事などの勤労(きんろう)奉仕(ほうし)をしなければなりませんでした。用水路を()るのも子どもたちの仕事です。
1942年(昭和17年)佐伯郡(さえきぐん)八幡村(やはたむら)現在(げんざい)の広島市佐伯区(さえきく)八幡(やはた)
提供/森崎サダ子氏

国民学校の1日。ゲンのクラスではつづり方(作文)の授業(じゅぎょう)が行われていました。
ゲンは、自分の考えを堂々とみんなの前で読み上げましたが……。


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はだしのゲンとともに