こどもたちの見た戦争

はだしのゲンとともに

戦時中の市民生活

 1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、政府(せいふ)は国民に戦争への協力を(うなが)すため「国民(こくみん)精神(せいしん)総動員(そうどういん)運動」を進めていきました。そして、町内会や隣組(となりぐみ)組織(そしき)を利用して、政府(せいふ)方針(ほうしん)を国民全体に行き(わた)らせる体制(たいせい)をつくりました。
 戦時(せんじ)体制下(たいせいか)では、物資(ぶっし)資金(しきん)が軍事に優先的(ゆうせんてき)に回されたため、国民は耐乏(たいぼう)生活(せいかつ)余儀(よぎ)なくされました。食料や衣料は町内会を通じた切符制(きっぷせい)配給制(はいきゅうせい)となっていきました。また、政府(せいふ)は戦費をまかなうために国民に貯蓄(ちょちく)(すす)め、戦時(せんじ)債券(さいけん)購入(こうにゅう)奨励(しょうれい)しました。さらに、兵器を(つく)るための原材料とするために、(なべ)(かま)など家庭の金属(きんぞく)製品(せいひん)が集められ、空襲(くうしゅう)(そな)えた訓練も行われていました。
 戦争が長引いていくと、中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)以上の学生たちは重要な労働力として工場などに続々と動員されていきました。

1945年(昭和20年)、 日本の都市は次々と米軍による空襲(くうしゅう)を受け、 政府(せいふ)は日本本土で戦闘(せんとう)が行われることも想定していました。
ゲンや家族たちの()らしぶりはどうだったのでしょうか。

1996年(平成8年)6月25日 中央公論新社発行 中公愛蔵版「はだしのゲン」から

漫画(まんが)「はだしのゲン」の中に、現在(げんざい)では不適切(ふてきせつ)とされる表現(ひょうげん)が一部ありますが、言い()えは作品全体のストーリーに影響(えいきょう)(およ)ぼすため、原作のままとしています。

金属(きんぞく)回収(かいしゅう)ポスター

1941年(昭和16年)に金属(きんぞく)回収(かいしゅう)(れい)が出され、家庭の(なべ)(かま)、寺の(かね)までも回収(かいしゅう)されていきました。   
寄贈/平下茂樹氏

衣料切符(きっぷ)

1942年(昭和17年)2月には、衣料品を節約するために、衣料切符制(きっぷせい)実施(じっし)されました。
寄贈/應和俊一氏

防空頭巾(ぼうくうずきん)

空襲(くうしゅう)(さい)に、火災(かさい)による火の粉や落下物から身を守るためにかぶるものです。子どもたちは学校の行き帰りに、持って歩いていました。
寄贈/藤田フサヨ氏

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