きかくてんをみよう
記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-
被爆者(ひばくしゃ)は、さまざまなきっかけから重い口を開き、自らの悲惨(ひさん)な体験を次の世代へと伝えてきた。被爆(ひばく)体験(たいけん)証言(しょうげん)で、写真で、手記で、あるいは絵で…。方法はさまざまだが、(うった)えたいのは「二度とあの惨禍(さんか)()(かえ)させてはならない」という、ただ一つの思いである。そして、その市民一人一人の協力により、地元のマスコミによる日常的(にちじょうてき)報道(ほうどう)という(わく)()えた取り組みは成功を(おさ)め、日々の報道(ほうどう)の中にヒロシマの姿(すがた)が記録されてきた。
原爆(げんばく)を記録し、表現(ひょうげん)する

71写真に写す
1945(昭和20)年8月6日 午前11時ごろ
御幸橋
(みゆきばし)
 爆心地(ばくしんち)から2,270m

被爆(ひばく)直後の混乱(こんらん)や戦後の被爆者(ひばくしゃ)の苦しみを写し続けた写真がある。「写真」は事実の記録として、ヒロシマの被害(ひがい)を世に伝えてきた。左は当時中国新聞社写真部、広島師団(しだん)司令部(しれいぶ)報道班(ほうどうはん)所属(しょぞく)していた松重美人氏の撮影(さつえい)。  
 
73絵に(えが)
1970(昭和45)年7月29日
被爆(ひばく)直後から、画家たちは焼けただれた街の中で筆を取り、自らの被爆(ひばく)体験(たいけん)をもとに、原爆(げんばく)(えが)き続けた。また、丸木位里・赤松俊子の「原爆(げんばく)の図」に代表される印象的な作品が生まれた。写真は大作に取り組む福井芳郎氏。
72映画(えいが)()
1958(昭和33)年4月17日
幟町(のぼりちょう)小学校

1952(昭和27)年以降(いこう)、広島を舞台(ぶたい)とした原爆(げんばく)に関する映画(えいが)が、国内・海外を問わず作られてきた。映画(えいが)大衆(たいしゅう)に分かりやすく原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さを(うった)える。写真は映画(えいが)千羽鶴(せんばづる)」の撮影(さつえい)風景(ふうけい)
原爆文学(げんばくぶんがく)
被爆(ひばく)という悲惨(ひさん)な体験の中から生まれた小説や詩は、原爆(げんばく)文学(ぶんがく)という一つのジャンルを(きず)いた。終戦直後、占領軍(せんりょうぐん)によって出版物(しゅっぱんぶつ)検閲(けんえつ)が行われる中、作家たちは、原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さを世に(うった)えようと試みた。現在(げんざい)(わたし)たちは、多くの(すぐ)れた作品を手に取ることができる。
 
74「さんげ」の自筆(じひつ)原稿(げんこう)
著者(ちょしゃ)/正田(しょうだ)篠枝(しのえ)
 
75「夏の花」
著者(ちょしゃ)/(はら)民喜(たみき) 
1949(昭和24)年 初版本(しょはんぼん)
被爆体験(ひばくたいけん)をつづる
文字に残すということは、被爆者(ひばくしゃ)にとって体験を伝える身近な方法だった。1951(昭和26)年以降(いこう)被爆者(ひばくしゃ)遺族(いぞく)の手記が活発に出版(しゅっぱん)されるようになり、多くの人々の心を打った。現在(げんざい)被爆(ひばく)体験(たいけん)をつづる取り組みは続いている。
  76原爆(げんばく)の子
廣島(ひろししま)の少年少女のうったえ」

(へん)/長田新氏
1951(昭和26)年 初版本(しょはんぼん) 

77「星は見ている
全滅(ぜんめつ)した広島一中一年生・父母の手記集」

(へん)/秋田正之氏
1954(昭和29)年 初版本(しょはんぼん)

原爆(げんばく)報道(ほうどう)する

78地元のマスコミの原爆報道(げんばくほうどう)
1969(昭和44)年
地元広島のマスコミは原爆(げんばく)に関して(いく)つもの番組を作り、特集を組んできた。中には、日常的(にちじょうてき)報道(ほうどう)という(わく)()えた、大掛(おおが)かりな調査(ちょうさ)資料(しりょうう)収集(しゅうしゅう)(ともな)う取り組みもあった。マスコミの()びかけから市民運動が広がった例もあった。写真は広島テレビのドキュメントドラマ「(いしぶみ)」の制作風景(せいさくふうけい)
 
79(きゅう)広島二中一年生の記録
(いしぶみ)」の基礎(きそ)資料(しりょう)となった遺族(いぞく)の手記。広島テレビは番組の制作(せいさく)のため、約半年間にわたって調査(ちょうさ)を行った。ここには、県立広島第二中学校1年生209人の被爆(ひばく)状況(じょうきょう)が、遺族(いぞく)の手により書きつづられている。
    80「市民が()いた原爆(げんばく)の絵」募集(ぼしゅう)チラシ
2002(平成14)年にNHK広島放送局・広島平和記念資料館・中国新聞社などが共同で募集(ぼしゅう)したもの
1974(昭和49)年、NHK中国本部は「市民の手で原爆(げんばく)の絵を残そう」と()びかけを行った。反響(はんきょう)は大きく、多数の絵が集まった。2002(平成14)年に再度(さいど)募集(ぼしゅう)し、現在(げんざい)3,563点を当館が所蔵(しょぞう)している。


被爆体験(ひばくたいけん)(かた)()
81被爆体験証言(ひばくたいけんしょうげん)の始まり
1954(昭和29)年5月15日 児童文化会館
被爆者(ひばくしゃ)が重い口を開き、自らの悲惨(ひさん)な体験を語り始めたのは、1950年代半ばに原水爆(げんすいばく)禁止(きんし)運動(うんどう)が全国的な盛り上(もりあ)がりを見せてからだった。1954(昭和29)年の原爆(げんばく)水爆(すいばく)禁止(きんし)広島市民大会では、壇上(だんじょう)被爆者(ひばくしゃ)の生々しい体験が語られた。
  82被爆(ひばく)体験(たいけん)証言(しょうげん)実施(じっし)状況(じょうきょう)
1970年代以降(いこう)、「被爆(ひばく)体験(たいけん)直接(ちょくせつ)聞きたい」という声に(こた)え、学校などの団体(だんたい)被爆(ひばく)体験(たいけん)証言(しょうげん)を行う被爆者(ひばくしゃ)のグループが続々と作られた。被爆(ひばく)体験(たいけん)証言(しょうげん)件数(けんすう)は1987(昭和62)年から2003(平成15)年の17年間で、ほぼ2倍となっている。

83ヒロシマの心を伝える
2005(平成17)年6月4日 平和記念公園
2度と同じ出来事を()(かえ)さないために…。今も、広島の街のあちこちで、被爆者(ひばくしゃ)は自らの悲惨(ひさん)な体験を(かた)()いでいる。
 

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 ●記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

 ▲TOPにもどる