きかくてんをみよう
1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
廃墟(はいきょ)のなかから立ち上がってくる力強いものをコンクリートを(たよ)りにして(つく)ってみたかったのだ」。丹下(たんげ)健三(けんぞう)()の言葉どおり、廃虚(はいきょ)の中に力強く、コンクリートの建物が建ち上がった。1955(昭和30)年8月、平和記念資料館(しりょうかん)が開館する。初期の資料館(しりょうかん)はまだ展示(てんじ)資料(しりょう)も少なく、施設(しせつ)にも不備(ふび)が多かったが、初年度から11万人を()える人が(おとず)れ、市民の協力により資料(しりょう)徐々(じょじょ)に集まり始めた。


11 平和記念資料館(しりょうかん)の開館
1955(昭和30)年 平和記念公園
1955(昭和30)年8月24日、平和記念資料館(しりうかん)が開館し、初代館長に市民(しみん)有志(ゆうし)とともに被爆(ひばく)資料(しりょう)を集め続けてきた長岡(ながおか)省吾(しょうご)()就任(しゅうにん)した。 写真手前の平和大通りから見て左には同年3月1日に公会堂が、右には同年6月1日に平和記念館が完成し、平和記念公園の原型ができた。

12入館料(にゅうかんりょう)は大人20円
1955(昭和30)年8月23日 広島平和記念資料館(しりょうかん)
開館したばかりの資料館(しりょうかん)展示(てんじ)は、コンクリートの(ゆか)直接(ちょくせつ)展示(てんじ)ケースや写真パネルが置かれただけの簡素(かんそ)なものだった。展示(てんじ)資料(しりょう)はまだ少なかったが、開館初年度の入館者数は、11万人を()えた。

13ガラス()りの展示室(てんじしつ)
広島平和記念資料館(しりょうかん)
ガラス()りの展示室(てんじしつ)は、外から中の資料(しりょう)(なが)められた。皮肉をこめて「鳥かご」と()ばれることもあった。

15被爆資料(ひばくしりょう)を見つめる来館者
1957(昭和32)年4月 広島平和記念資料館(しりょうかん)
展示(てんじ)の仕方は洗練(せんれん)されているとは言えなかったが、一つ一つの資料(しりょう)には見る人を引きつける力強さがあった。

14開館時は8人の職員(しょくいん)
1956(昭和31)年ごろ 広島平和記念資料館(しりょうかん)
チケットやパンフレットの販売(はんばい)事務員(じむいん)が行い、宿直も守衛(しゅえい)だけでは人数が足らず、事務員(じむいん)が加わった。写真は開館時の職員(しょくいん)で、中央が長岡館長(ながおかかんちょう)

16被爆(ひばく)のこん(せき)調査(ちょうさ)する
安佐郡佐東町川内(あさぐんさとうちょうかわうち)(現在(げんざい)安佐南区川内(あさみなみくかわうち))
少ない人員ながら、調査(ちょうさ)も行われた。写真は被爆馬(ひばくうま)調査(ちょうさ)の様子。爆心地(ばくしんち)から1,300mの横川町で被爆(ひばく)したこの馬は、1958(昭和33)年の広島復興(ふっこう)(だい)博覧(はくらん)(かい)一般(いっぱん)公開(こうかい)され、後にはく(せい)となって館内で展示(てんじ)された。




18人影(ひとかげ)の石」を保存(ほぞん)する
1971(昭和46)年2月2日 広島平和記念資料館(しりょうかん)
1971(昭和46)年、25年にわたり街角から原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さを伝えてきた「人影(ひとかげ)の石」が、住友銀行広島支店の改築(かいちく)にともない、資料館(しりょうかん)寄贈(きぞう)された。写真は展示室(てんじしつ)にクレーンで運び込(はこびこ)まれる「人影(ひとかげ)の石」。

17復興博(ふっこうはく)の会場として
1958(昭和33)年4月1日
開館3年目の1958(昭和33)年4月、平和記念公園などを会場に、広島復興(ふっこう)(だい)博覧(はくらん)(かい)が開かれ、資料館(しりょうかん)も第1会場の原子力科学館として使われた。 



19展示解説(てんじかいせつ)テープと音声ガイド
左 以前の展示解説(てんじかいせつ)テープ 右 現在(げんざい)の音声ガイド
1964(昭和39)年、海外から(おとず)れる来館者のために、英語の解説(かいせつ)テープの貸し出(かしだ)しが始まった。その後、日本語・中国語などを追加、平成14(2002)年に現在(げんざい)の音声ガイドに更新(こうしん)し、計17ヵ国語となった。
20爆心直下(ばくしんちょっか)の街()みを展示(てんじ)する
1972(昭和47)年7月9日 広島平和記念資料館(しりょうかん)
1972(昭和47)年、焼け野原となった平和記念公園一帯((きゅう)中島(なかじま)地区(ちく))の被爆(ひばく)前の地図が資料館(しりょうかん)寄贈(きぞう)された。失われた街を復元(ふくげん)する作業は、NHK広島中央放送局と広島大学原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)研究所(けんきゅうじょ)などの手により、被爆(ひばく)から20年以上()った1966(昭和41)年に始まった。写真は公開された地図で()()(さが)(きゅう)町民(ちょうみん)
  21対話ノート
1970(昭和45)年から館内に置いた対話ノートは、35年間で928(さつ)[2005(平成17)年5月31日現在(げんざい)]になった。書き()みは、修学(しゅうがく)旅行(りょこう)(せい)、親子連れ、外国人など、年齢(ねんれい)も言語もさまざま。変わらない平和への思いがつづられる。

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

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