きかくてんをみよう
1991~ ヒロシマの心を世界に
被爆(ひばく)から50年、被爆者(ひばくしゃ)高齢化(こうれいか)とともに、被爆体験(ひばくたいけん)の風化はますます進みつつあった。1991(平成3)年、平和記念資料館(しりょうかん)は2度目の大改修(だいかいしゅう)を終え、開館する。また、1989(平成元)年に公会堂が国際会議場(かいぎじょう)として、1994(平成6)年には平和記念館が平和記念資料館(しりょうかん)の東館として新築(しんちく)された。2つの建物は一体となり、従来(じゅうらい)資料館(しりょうかん)は「被爆(ひばく)体験(たいけん)継承(けいしょう)の場」、新しい東館は「平和学習の場」として使われるようになった。


282度目の大改修(かいしゅう)
1991(平成3)年8月1日
広島平和記念資料館(しりょうかん)

1991(平成3)年、全面的な改修(かいしゅう)を終え、現在(げんざい)資料館(しりょうかん)が開館した。被爆(ひばく)体験(たいけん)のない世代にも視覚的(しかくてき)に分かりやすいように、リトルボーイの模型(もけい)や大画面の映像(えいぞう)を取り入れた。

22 東館の新築(しんちく)オープン
1998(平成10)年10月2日
1994(平成6)年には、平和記念館が資料館(しりょうかん)の東館として新築(しんちく)され、平和記念資料館(しりょうかん)従来(じゅうらい)の平和記念館と一体化した。これにより、(おん)湿度(しつど)管理(かんり)された収蔵庫(しゅうぞうこ)(そな)えられ、展示(てんじ)スペースも飛躍的(ひやくてき)()えた。



30アメリカン大学での原爆展(げんばくてん)開催(かいさい)
1995(平成7)年7月 ワシントンDC アメリカン大学
終戦50年に向けて、アメリカのスミソニアン協会・国立(こくりつ)航空(こうくう)宇宙(うちゅう)博物館(はくぶつかん)原爆(げんばく)の投下に関する特別展(とくべつてん)を計画し、資料館(しりょうかん)から現物(げんぶつ)資料(しりょう)()し出しが決まった。しかし、軍人(たいえき)軍人(ぐんじん)などの(もう)抗議(こうぎ)により、被爆(ひばく)資料(しりょう)展示(てんじ)は中止となる。これをきっかけに、同じワシントンDCのアメリカン大学で、原爆展(げんばくてん)が開かれた。


31アメリカン大学の原爆展(げんばくてん)の感想ノート
スミソニアン協会・国立(こくりつ)航空(こうくう)宇宙(うちゅう)博物館(はくぶつかん)特別展(とくべつてん)の中止は、戦後50年を()た日米の意識(いしき)(へだ)たりを(しめ)す出来事だった。感想ノートには、賛否(さんぴ)両論(りょうろん)、さまざまな意見がつづられている。

32被爆(ひばく)体験(たいけん)を次世代に伝える
2005(平成17年)年6月9日
広島平和記念資料館(しりょうかん)

1999(平成11)年から、ピース・ボランティアによる館内の展示(てんじ)解説(かいせつ)と公園の案内が始まった。被爆者(ひばくしゃ)から被爆(ひばく)体験(たいけん)のない若者(わかもの)まで、市民の中から応募(おうぼ)した総勢(そうぜい)168名[2005(平成17)年4月1日現在(げんざい)]が活動している。



33新たな資料館(しりょうかん)を目指して
2005(平成17)年2月17日
広島平和記念資料館(しりょうかん)

被爆者(ひばくしゃ)高齢化(こうれいか)する中、(わか)い世代にどのように被爆(ひばく)体験(たいけん)を伝えていくかが、今後の大きな課題である。現在(げんざい)、建物の整備(せいび)展示(てんじ)更新(こうしん)などについて、有識者(ゆうしきしゃ)による委員会を設置(せっち)し、検討(けんとう)している。写真は第3回広島平和記念資料館(しりょうかん)更新(こうしん)計画(けいかく)検討(けんとう)委員会(いいんかい)

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物<
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

 ▲TOPにもどる