きかくてんをみよう
ヒロシマの60年
1945(昭和20)年8月6日、一発の原子(げんし)爆弾(ばくだん)により広島の街は壊滅(かいめつ)した。広島市民は一瞬(いっしゅん)のうちに大切な肉親を(うば)われ、()れ親しんだ街を失った。被爆(ひばく)から60年という歳月(さいげつ)は、戦後を必死に生き()く中で、つらい過去(かこ)に口を()ざしていた被爆者(ひばくしゃ)被爆(ひばく)体験(たいけん)の持つ意味に気づき、やがては自らの悲惨(ひさん)な体験を外へ伝えていくという、静から動への被爆者(ひばくしゃ)の心の歴史でもある。その中で、多くの市民によりさまざまな平和活動がなされてきた。
慰霊(いれい)追悼(ついとう)(いの)るー
1955(昭和30)年に平和記念公園内に建立された原爆(げんばく)供養塔(くようとう)には、名前が分かっていながら引き取り手のない遺骨(いこつ)が831柱〔2005(平成17)年6月20日現在(げんざい)〕、名前が分からず引き取り手のない遺骨(いこつ)が約7万柱(おさ)められている。現在(げんざい)、広島の街には数多くの慰霊碑(いれいひ)がある。学校で、職場(しょくば)で、あるいは住んでいた土地で、残された人々はさまざまな場所に慰霊碑(いれいひ)を建立し、犠牲者(ぎせいしゃ)(いた)んできた。今も毎年8月6日を中心に各所で慰霊(いれい)行事(ぎょうじ)(いとな)まれる。
()き人の慰霊碑(いれいひ)を建てる

52被爆(ひばく)翌年(よくねん)に建てた供養塔(くようとう)
1946(昭和21)年8月6日
中島本町(平和記念公園)

焼け野原での市民生活が始まったが、遺族(いぞく)の悲しみは()えなかった。写真は被爆(ひばく)翌年(よくねん)に建てられた戦災(せんさい)死没(しぼつ)諸霊(しょれい)供養塔(くようとう)と、(かく)宗教(しゅうきょう)により(いとな)まれた追悼会(ついとうかい)

53雑草(ざっそう)の中に立つ木製(もくせい)慰霊碑(いれいひ)
1948(昭和23)年 本川沿()い(平和記念公園付近)
残された人々は、被爆死(ひばくし)した家族や仲間を思い、学校、職場(しょくば)、町内会などの単位で慰霊碑(いれいひ)を建てた。写真は被爆(ひばく)から3年後、本川沿()いの土手の上に点々と立つ木製(もくせい)慰霊碑(いれいひ)

54原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)除幕(じょまく)
1952(昭和27)年8月6日
平和記念公園

被爆(ひばく)から7年後の1952(昭和27)年8月6日、原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)(広島(ひろしま)平和(へいわ)都市(とし)記念碑(きねんひ))が除幕(じょまく)された。以後、この慰霊碑(いれいひ)前で式典が開催(かいさい)されるようになる。

55奉納(ほうのう)された名簿(めいぼ)押し寄(おしよ)せる人々
1952(昭和27)年8月6日 平和記念公園
原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)の中に(おさ)められている原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)名簿(めいぼ)には、毎年新たな死没者(しぼつしゃ)の名前が書き加えられ、8月6日の平和記念式典で奉納(ほうのう)されている。写真は慰霊碑(いれいひ)(おさ)められた名簿(めいぼ)を囲み、手を合わせる遺族(いぞく)
 

続々と()り出される遺骨(いこつ)
  56坂町で発掘(はっくつ)された遺骨(いこつ)
1952(昭和27)年7月30日
安芸郡坂町

被爆(ひばく)から何年を()ても、原爆犠牲者(げんばくぎせいしゃ)遺骨(いこつ)が市内や周辺部から多数見つかった。被爆(ひばく)から7年後、坂町では216体の遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)される。
57昨年似島(にのしま)発掘(はっくつ)された遺骨(いこつ)遺品(いひん)
2004(平成16)年6月28日 似島町(にのしまちょう)
昨年似島(にのしま)では、推定(すいてい)85体の遺骨(いこつ)が見つかった。遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)は、1950年代後半で一通り終了(しゅうりょう)したが、その後も関係者の証言(しょうげん)などにより、新たな遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)が相次いだ。


続けられる慰霊行事(いれいぎょうじ)
  56各所で(いとな)まれる慰霊(いれい)行事(ぎょうじ)
1953(昭和28)年5月 広島女学院牛田校地 牛田東
授業(じゅぎょう)や仕事の再開(さいかい)に先立ち、学校、職場(しょくば)、町内会などにより犠牲者(ぎせいしゃ)追悼(ついとう)法要(ほうよう)慰霊式(いれいしき)(いとな)まれた。現在(げんざい)も8月6日を中心に各所で慰霊(いれい)行事(ぎょうじ)が行われている。

60水辺の供養(くよう)
1958(昭和33)年8月6日 本川
広島の川には、火災(かさい)(のが)れ、水を求が殺到(さっとう)し、無数の人々が水辺で()くなった。爆心地(ばくしんち)付近(ふきん)の川での慰霊(いれい)行事(ぎょうじ)は、1947(昭和22)年から行われている。また、灯ろう流しは、1952(昭和27)年から大規模(だいきぼ)実施(じっし)されるようになった。


  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

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