きかくてんをみよう
1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
被爆(ひばく)から30年の年月が流れ、鉄製(てっせい)窓枠(まどわく)()び、雨漏(あまも)りする箇所(かしょ)があるなど、平和記念資料館(しりょうかん)設備(せつび)自体にも老朽化(ろうきゅうか)が目立つようになった。1973~1975(昭和48~50)年にかけて、開館以来初めての大規模(だいきぼ)改修(かいしゅう)工事(こうじ)が行われる。これと前後して、アメリカから返還(へんかん)された被災(ひさい)写真(しゃしん)などの新たな資料(しりょう)が加わり、被爆(ひばく)体験(たいけん)を伝える資料(しりょう)一層(いっそう)充実(じゅうじつ)した。


23アメリカから返還(へんかん)された資料(しりょう)
1973(昭和48)年5月10日 
広島大学原爆(げんばく)放射能(ほうしゃのう)医学(いがく)研究所(けんきゅうじょ)附属(ふぞく)原爆(げんばく)医学(いがく)標本(ひょうほん)センター

終戦直後にアメリカ軍が収集(しゅうしゅう)し持ち帰っていた被爆(ひばく)関係(かんけい)資料(しりょう)が、1973(昭和48)年、日本の要求により返還(へんかん)された。この中には被爆(ひばく)直後の広島の惨状(さんじょう)撮影(さつえい)した写真1,879枚(1,879まい)(ふく)まれており、以後遺品(いひん)(なら)展示(てんじ)資料(しりょう)の柱となった。

22資料保存(しりょうほぞん)への一歩
1975(昭和50)年8月~9月 広島平和記念資料館(しりょうかん)
改修(かいしゅう)工事(こうじ)()資料館(しりょうかん)展示(てんじ)内容(ないよう)を一新し、資料(しりょう)劣化(れっか)(ふせ)ぐために展示室(てんじしつ)への陽射(ひざ)しを遮断(しゃだん)した。


24遺品(いひん)(たく)して
1979(昭和54)年8月6日  広島平和記念資料館(しりょうかん)
大切な肉親の遺品(いひん)を手放すのは(しの)びないことだった。しかし、「原爆(げんばく)悲惨(ひさん)さを伝えるために少しでも役立つのなら」という思いから、一つまた一つと遺品(いひん)資料館(しりょうかん)()せられた。写真は展示(てんじ)された帽子(ぼうし)、学生服、ベルト、ゲートルの前で、(なみだ)する3人の母親たち。



25被爆(ひばく)資料(しりょう)海外(かいがい)展示(てんじ)
1980(昭和55)年6月
ワシントンDC アメリカアメリカ連邦(れんぽう)議会(ぎかい)上院(じょういん)議員(ぎいん)会館(かいかん)

1980(昭和55)年、ワシントンDCのアメリカ連邦(れんぽう)議会(ぎかい)上院(じょういん)議員(ぎいん)会館(かいかん)で、広島青(ひろしま)青年(せいねん)会議所(かいぎしょ)主催(しゅさい)の「ヒロシマ・ナガサキ原爆展(げんばくてん)」が開催(かいさい)され、写真66点、被爆(ひばく)資料(しりょう)40点が展示(てんじ)された。初期の海外(かいがい)展示(てんじ)であった。

26改装(かいそう)のための引越(ひっこ)
1990(平成2)年 広島平和記念館
開館以来35年、増え続(ふえつづ)ける入館者に展示(てんじ)スペースの(せま)さや施設(しせつ)不備(ふび)が目立つようになった。1990(平成2)年、資料館(しりょうかん)は2度目の大改修(だいかいしゅう)を行う。写真は改修(かいしゅう)で平和記念館の仮設(かせつ)展示場(てんじじょう)(うつ)され、組立てられる3代目の市街地のパノラマ模型(もけい)
27資料館(しりょうかん)観覧券(かんらんけん)
開館当時の資料館(しりょうかん)の入館料は大人20円、小人10円。1972(昭和47)年に大人50円、小人30円に値上(ねあ)げした後、現在(げんざい)まで33年間料金は変わっていない。

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物<
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

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