きかくてんをみよう
はじめに
被爆(ひばく)から60年。今年、平和記念資料館(しりょうかん)は開館50年を(むか)える。原子爆弾(げんしばくだん)により廃虚(はいきょ)となった広島の街は、見事に復興(ふっこう)し、発展(はってん)()げた。この間、市民は多くの出来事をくぐり()け、さまざまな平和活動を行ってきた。
企画展(きかくてん)では、資料館(しりょうかん)の生い立ちから今日までと、市民の平和活動の歩みを振り返(ふりかえ)る。
 
平和記念資料館(しりょうかん)の50年
1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
1949(昭和24)年、基町(もとまち)の中央公民館内に、資料館(しりょうかん)の前身となる「原爆(げんばく)参考(さんこう)資料(しりょう)陳列室(ちんれつしつ)」が開室し、その後独立(どくりつ)して「原爆(げんばく)記念館(きねんかん)」が建てられた。同年、設計(せっけい)競技(きょうぎ)によって平和記念公園の構想(こうそう)ができあがり、広島平和記念都市建設法(ひろしまへいわきねんとしけんせつほう)施行(しこう)される。これにより、1951(昭和26)年、「原爆(げんばく)資料(しりょう)陳列館(ちんれつかん)」(現在(げんざい)の平和記念資料館(しりょうかん))の建設(けんせつ)が始まった。

1焼け野原でがれきを集める
苦しい生活の中で、被爆(ひばく)した(かわら)や石を集める男がいた。後に平和記念資料館(しりょうかん)の初代館長となる長岡(ながおか)省吾(しょうご)()である。長岡(ながおか)()原子(げんし)爆弾(ばくだん)影響(えいきょう)をつきとめるため、日々リュックを(かた)に焼け野原に向かった。この熱意に動かされた市民有志(ゆうし)が「原爆(げんばく)資料(しりょう)集成(しゅうせい)後援会(こうえんかい)」(後の原爆(げんばく)資料(しりょう)保存会(ほぞんかい))を結成。資料(しりょう)収集(しゅうしゅう)を手伝った。写真(しゃしん)左端(ひだりはし)長岡(ながおか)省吾(しょうご)()

2小さな展示室(てんじしつ)の開室
1949(昭和24)年9月 基町(もとまち) 広島市中央公民館
1949(昭和24)年9月、広島市は基町(もとまち)の中央公民館の一室に「原爆(げんばく)参考(さんこう)資料(しりょう)陳列室(ちんれつしつ)」を開設(かいせつ)し、長岡氏(ながおかし)の集めた資料(しりょう)展示(てんじ)した。(つくえ)やいすを(なら)べた上に紙を()き、被爆(ひばく)した(かわら)や石を置いただけの展示(てんじ)だった。


4原爆(げんばく)記念館(きねんかん)
基町(もとまち) やがて、中央公民館の北隣(きたとなり)に「原爆(げんばく)記念館(きねんかん)」が開設(かいせつ)された。小さな施設(しせつ)ながら、広島市の市勢(しせい)要覧(ようらん)観光(かんこう)施設(しせつ)として紹介(しょうかい)され、観光バスが止まり、海外の要人が(おとず)れた。
3「HIROSHIMA」
著者(ちょしゃ)/長岡(ながおか)省吾(しょうご)() 1954(昭和29)年
長岡
(ながおか)
省吾(しょうご)()編集(へんしゅう)したパンフレット。広島文理科大学の地質学(ちしつがく)鉱物学(こうぶつがく)授業(じゅぎょう)嘱託(しょくたく)として勤務(きんむ)していた長岡(ながおか)省吾(しょうご)()は、被爆(ひばく)資料(しりょう)を熱心に集めるだけでなく、自らこつこつと集めたデータをもとに、原爆(げんばく)被害(ひがい)を研究した。
5平和記念都市の建設(けんせつ)
1949(昭和24)年5月、関係者の奔走(ほんそう)により広島平和(へいわ)記念(きねん)都市(とし)建設(けんせつ)法案(ほうあん)が国会で可決(かけつ)、同7月の住民投票で9割(9わり)()える賛成(さんせい)を得て成立した。これにより、平和記念公園とその中の施設(しせつ)に対して、国の財政(ざいせい)支援(しえん)が始まった。
6平和記念公園の設計(せっけい)競技(きょうぎ)
1949(昭和24)年、平和記念公園とその中の施設(しせつ)を作るための設計(せっけい)競技(きょうぎ)が行われ、当時東京(とうきょう)大学(だいがく)助教授(じょきょうじゅ)であった丹下(たんげ)健三(けんぞう)()グループの作品が、145作品の中から1等に入選した。


7原爆(げんばく)ドームを中心に
1956(昭和31)年7月19日 平和記念公園
百メートル道路(平和大通り)から入ると正面に原爆(げんばく)ドームが見えるよう公園は設計(せっけい)された。写真は初期の平和記念資料館(しりょうかん)資料館(しりょうかん)から一直線上に原爆(げんばく)死没者(しぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)(広島(ひろしま)平和(へいわ)都市(とし)記念碑(きねんひ))と原爆(げんばく)ドームが見える。




9記念館(きねんかん)設計図(せっけいず)
丹下健三計画研究室(たんげけんぞうけいかくけんきゅうしつ)東京大学建築学教室(とうきょうだいがくけんちくがくきょうしつ)により、1950(昭和25)年に作成された、現在(げんざい)の平和記念資料館(しりょうかん)設計図(せっけいず)


8廃虚(はいきょ)の中に建ち上がる
1951(昭和26)年 平和記念公園
1951(昭和26)年2月、「原爆(げんばく)資料(しりょう)陳列館(ちんれつかん)」の建設(けんせつ)が始まった。まだ公園の形はなく、バラック住宅(じゅうたく)立ち並(たちなら)び、寺の敷地(しきち)には墓地(ぼち)が広がっていた。



10整地が進む平和記念公園
1952(昭和27)年 建設中(けんせつちゅう)の「原爆(げんばく)資料(しりょう)陳列館(ちんれつかん)」から平和記念公園を望む

  廃虚(はいきょ)の中に立ち上がる
平和記念資料館(しりょうかん)とヒロシマの歩み

 ●1945~1954 焼け野原でがれきを集める-平和記念資料館(しりょうかん)前史(ぜんし)
 ●1955~1974 廃虚(はいきょ)に建ち上がった建物
 ●1975~1990 被爆体験(ひばくたいけん)を伝える拠点(きょてん)
 ●1991~ ヒロシマの心を世界に
 ●世界のまなざし ヒロシマを(おとず)れた人々
 ●データで見る資料館(しりょうかん)
 ●ヒロシマの60年
 保存(ほぞん)復元(ふくげん)ー残すー
 記憶(きおく)継承(けいしょう)-伝える-

 おわりに

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