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1●焼け野原でがれきを集める
苦しい生活の中で、被爆した瓦や石を集める男がいた。後に平和記念資料館の初代館長となる長岡省吾氏である。長岡氏は原子爆弾の影響をつきとめるため、日々リュックを肩に焼け野原に向かった。この熱意に動かされた市民有志が「原爆資料集成後援会」(後の原爆資料保存会)を結成。資料の収集を手伝った。写真左端が長岡省吾氏。
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2●小さな展示室の開室
1949(昭和24)年9月 基町 広島市中央公民館
1949(昭和24)年9月、広島市は基町の中央公民館の一室に「原爆参考資料陳列室」を開設し、長岡氏の集めた資料を展示した。机やいすを並べた上に紙を敷き、被爆した瓦や石を置いただけの展示だった。
4●「原爆記念館」
基町
やがて、中央公民館の北隣に「原爆記念館」が開設された。小さな施設ながら、広島市の市勢要覧に観光施設として紹介され、観光バスが止まり、海外の要人が訪れた。
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3●「HIROSHIMA」
著者/長岡省吾氏 1954(昭和29)年 長岡省吾氏の編集したパンフレット。広島文理科大学の地質学鉱物学授業嘱託として勤務していた長岡省吾氏は、被爆資料を熱心に集めるだけでなく、自らこつこつと集めたデータをもとに、原爆の被害を研究した。
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5●平和記念都市の建設へ
1949(昭和24)年5月、関係者の奔走により広島平和記念都市建設法案が国会で可決、同7月の住民投票で9割を超える賛成を得て成立した。これにより、平和記念公園とその中の施設に対して、国の財政支援が始まった。
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6●平和記念公園の設計競技
1949(昭和24)年、平和記念公園とその中の施設を作るための設計競技が行われ、当時東京大学助教授であった丹下健三氏グループの作品が、145作品の中から1等に入選した。
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7●原爆ドームを中心に
1956(昭和31)年7月19日 平和記念公園
百メートル道路(平和大通り)から入ると正面に原爆ドームが見えるよう公園は設計された。写真は初期の平和記念資料館。資料館から一直線上に原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)と原爆ドームが見える。
9●「記念館設計図」
丹下健三計画研究室・東京大学建築学教室により、1950(昭和25)年に作成された、現在の平和記念資料館の設計図。
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8●廃虚の中に建ち上がる
1951(昭和26)年 平和記念公園
1951(昭和26)年2月、「原爆資料陳列館」の建設が始まった。まだ公園の形はなく、バラック住宅が立ち並び、寺の敷地には墓地が広がっていた。
10●整地が進む平和記念公園
1952(昭和27)年 建設中の「原爆資料陳列館」から平和記念公園を望む
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