きかくてんをみよう

■焼け野原からの再開(さいかい)
学籍簿(がくせきぼ)も焼け、校舎(こうしゃ)倒壊(とうかい)した中、関係者による復旧(ふっきゅう)への必死の努力が始まりました。1945(昭和20)年8月15日、戦争は終りを(むか)え、学徒(がくと)動員(どういん)解除(かいじょ)されます。多くの犠牲(ぎせい)を出しながらやっとの思いで再開(さいかい)を果した学校でしたが、教材どころか校舎(こうしゃ)での授業(じゅぎょう)もままなりませんでした。板を(さが)してきて(すみ)()り、焼けたくぎを石で打って黒板を作る。石炭箱を(なら)べて(つくえ)がわりにする…。それでも、学校は復旧(ふっきゅう)への道を(たし)かな足取りで歩み始めます。


66●「青空教室」で授業(じゅぎょう)を受ける県立広島工業学校の生徒たち
1945(昭和20)年 県立広島工業学校 千田町

 

65●倒壊(とうかい)した建物を(かた)づける安田高等女学校の生徒たち
1945~46(昭和20~21)年
工兵隊跡地(こうへいたいあとち) 白島北町


67●修道中学校(しゅうどうちゅうがっこう)授業(じゅぎょう)再開(さいかい)を告げるビラ
左上に「白島、己斐(こい)宇品(うじな)御幸橋(ごこうきょう)専売局(せんばいきょく)」とあり、各地域(かくちいき)張り出(はりだ)したと思われるビラの下書き。9月15日の授業(じゅぎょう)再開(さいかい)を告げるとともに、慰霊祭(いれいさい)日程(にってい)を告げています。
  68●学校の焼け(あと)へ集合を告げる山中高等女学校の新聞広告
1945(昭和20)年9月12日付 中国新聞
生徒も保護者(ほごしゃ)もちりぢりとなり、連絡(れんらく)手段(しゅだん)を持たなかった学校は、生徒同士の伝言や新聞広告、()り紙などによって学校の再開(さいかい)を生徒に告げました。
 

69●山中高等女学校(じょがっこう)専攻科(せんこうか)修了(しゅうりょう)証書(しょうしょ)
8月16日付で広島県から動員(どういん)解除(かいじょ)の通知が出され、各学校・工場単位で動員が解除(かいじょ)されていきます。動員を継続(けいぞく)するために中等学校卒業後に(もう)けられていた専攻科(せんこうか)付設科(ふせつか)終了(しゅうりょう)となりました。
  70●広島市内の学校の授業(じゅぎょう)再開(さいかい)状況(じょうきょう)
9月~10月にかけて多くの学校が授業(じゅぎょう)再開(さいかい)しました。市の中心部にあった学校ほど校舎(こうしゃ)被害(ひがい)が大きく、学校の再開(さいかい)困難(こんなん)でした。校舎(こうしゃ)が全焼した学校では、被害(ひがい)の少ない学校の教室や他の施設(しせつ)を借りたり、屋外で授業(じゅぎょう)を行うなど工夫をこらして授業(じゅぎょう)再開(さいかい)しました。  
 

 
72●(わたし)たちの学校はこの世に(たし)かにあった
山中高等女学校 千田町
「今から四十年前に在籍(ざいせき)した学校は、この世に(たし)かにあったのである。その証拠(しょうこ)に、そこで共に学び、共に(はげ)み、共に動員に行き、共に(きず)つき、 共に苦しんで死んでいった多くの友がいる。」 〈「追悼記(ついとうき)」より〉
原爆(げんばく)さえなかったら…それは、母校を失った卒業生に共通の思いではなかったでしょうか。
71●廃校(はいこう)となった西高等女学校の出席簿(しゅっせきぼ)
旭兵器製作所(あさひへいきせいさくしょ)に動員されていた4年東組の出席簿(しゅっせきぼ)製作所(せいさくしょ)に出席していた62人は全員無事でしたが、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)で多くの犠牲者(ぎせいしゃ)を出し、校舎(こうしゃ)も全焼した西高等女学校は、この日以来再開(さいかい)することなく、廃校(はいこう)となりました。この他にも原爆(げんばく)痛手(いたで)から立ち直ることができず、4校の学校が廃校(はいこう)となりました。


74●似島(にのしま)での遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)
1971(昭和46)年10月29日 似島(にのしま)中学校農業実習地 似島町(にのしまちょう)
学校の農業実習地で約617体の遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)されました。 この時に出た遺品(いひん)が決め手となり、建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)し、死亡(しぼう)した山中高等女学校生徒の遺骨(いこつ)が26年ぶりに確認(かくにん)され、遺族(いぞく)の手に(もど)りました。
  73●建立される慰霊碑(いれいひ)
1953(昭和28)年5月広島女学院牛田校地 牛田東
授業(じゅぎょう)再開(さいかい)に先がけて、各学校で犠牲者(ぎせいしゃ)追悼法要(ついとうほうよう)慰霊式(いれいしき)が行われました。遺族(いぞく)や関係者の手で建てられた慰霊碑(いれいひ)は、その後、木製(もくせい)のものから石造(いしづく)りの立派(りっぱ)なものに建て替(たてか)えられていきましたが、遺族(いぞく)の悲しみが(うす)れることはありませんでした。

75●()えない悲しみ
2003(平成15)年8月6日 平和大通り緑地帯 中島町
市内の学校で最大の犠牲者(ぎせいしゃ)を出した市立第一高等女学校(現在(げんざい)舟入(ふないり))高等学校の慰霊式典(いれいしきてん)被爆(ひばく)から59年を経過(けいか)した今も、毎年、各学校や被爆地(ひばくち)に建つ慰霊碑(いれいひ)の前で、追悼(ついとう)法要(ほうよう)慰霊式(いれいしき)(いとな)まれています。

  動員(どういん)学徒(がくと)
-失われた子どもたちの明日-

 ●はじめに
 ●戦時色をおびる学校
 学徒(がくと)動員(どういん)がはじまった
 被害(ひがい)をひろげた建物(たてもの)疎開(そかい)
 動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
 ●子どもを(さが)して
 ●焼け野原からの再開(さいかい)
 ●ご協力いただいた方々

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