きかくてんをみよう

■戦時色をおびる学校
1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、日本中が急速に戦時色を帯びてきました。学校生活の中でも修学旅行(しゅうがくりょこう)などの大きな行事が取り止めとなり、軍隊式の訓練が重んじられるようになりました。戦争が(はげ)しさを()す1943(昭和18)年以降(いこう)、大学生は学徒出陣(がくとしゅつじん)として戦地へと()り出され、国民学校3年生以上の児童は家族と(はな)れて郊外(こうがい)・地方に疎開(そかい)。そして、国民学校高等科以上の学徒は年間を通じて軍需工場(ぐんじゅこうじょう)などに動員されることになりました。

1●1944(昭和19)年の学校制度(がっこうせいど)
1941(昭和16)年、尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)および高等小学校は国民学校と名前を変えました。国民学校には初等科と高等科があり、初等科は現在(げんざい)の小学校にあたり、高等科は2年(せい)で12~14(さい)の児童が通学していました。中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)はもともと5年(せい)でしたが、1943(昭和18)年からは1年短縮(たんしゅく)して4年(せい)となり、12~16(さい)の生徒が通学しました。

2●金属回収(きんぞくかいしゅう)に協力を
()びかけるポスター

兵器を作るために必要な金属(きんぞく)が不足し始めると、1941(昭和16)年に金属類(きんぞくるい)回収令(かいしゅうれい)が出されました。お寺の(かね)や家庭の(なべ)(かま)などが、政府(せいふ)の求めに(おう)じて回収(かいしゅう)され、学校では門の(とびら)やトロフィーまでもが、姿(すがた)を消していきます。  


3●戦時色の(うつ)る習字作品
1942(昭和17)年
上柳町(かみやなぎちょう)(幟町(のぼりちょう))

5●軍事訓練を行う県立広島工業学校の生徒たち
1942(昭和17)年

4●中等学校の教科書
県立広島工業学校の生徒が使用していた国定の教科書。1943(昭和18)年から、中等学校の教科書は、それまでの検定制(けんていせい)から国が定めた1種類のものを使用することに決められました。


  動員(どういん)学徒(がくと)
-失われた子どもたちの明日-

 ●はじめに
 ●戦時色をおびる学校
 学徒(がくと)動員(どういん)がはじまった
 被害(ひがい)をひろげた建物(たてもの)疎開(そかい)
 動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
 ●子どもを(さが)して
 ●焼け野原からの再開(さいかい)
 ●ご協力いただいた方々

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