きかくてんをみよう

動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
1945(昭和20)年8月6日、午前8時15分。いつもと変わらず、動員先で作業にとりかかろうとしていた学徒たちの上に、原子爆弾(げんしばくだん)が投下され、当日、広島で動員されていた学徒のうち約7,200人が()くなりました。猛火(もうか)に焼かれ、級友の死を目のあたりにし、(きず)つきながら()(まど)う…。爆心地(ばくしんち)近くで作業をしていた子どもたちの目の前に、悲惨(ひさん)な光景が()りひろげられました。中でも凄惨(せいさん)を極めたのは、主に市内5ヵ所の建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に出ていた生徒たちで、約8,200人が動員され、約5,900人が()くなりました。

25●原子爆弾(げんしばくだん)の投下
1945(昭和20)年8月6日
広島陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう) (かすみ) から爆心地(ばくしんち)上空(じょうくう)を望む
 
 
26●応急手当(おうきゅうてあて)を受ける動員(どういん)学徒(がくと)
1945(昭和20)年8月6日午前11時ごろ
御幸橋
(みゆきばし)
西詰(にしづめ) 千田町
被爆(ひばく)から約3時間後、爆心地(ばくしんち)から2,300mの御幸橋(みゆきばし)で、油を()応急(おうきゅう)手当(てあて)負傷者(ふしょうしゃ)が集まっているところ。広島貯金支局(ちょきんしきょく)に動員されていた広島女子商業学校の生徒、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に出ていた広島市立中学校の生徒が(なら)んでいます。

  爆心地(ばくしんち)から400m~1,100mにあたる県庁(けんちょう)付近(ふきん)では、11校、1,891人が建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に動員され、1,821人(96%)が死亡(しぼう)しました。本川沿(ほんかわぞ)いに整列していた県立広島第二中学校の1年生、朝礼後、作業にとりかかっていた市立第一高等女学校の1・2年生。ほぼ全滅(ぜんめつ)し、遺体(いたい)の区別もつかない状態(じょうたい)でした。 
 
27●川へとつめかける生徒たち
1945(昭和20)年8月6日 本川
学徒(がくと)動員(どういん)作業中の学生全員が爆風(ばくふう)に飛ばされて、熱風でやけどした。
本川に向かって全員()げて、死んだものは川に流された。
 
28●川の中いっぱいに風船のようにふくれあがった死体
1945(昭和20)年8月7日 午前7時ごろ
相生橋より本川下流を望む
死体はいずれも風船のごとくふくらみ、男女の性別(せいべつ)判然(はんぜん)とせず。ことごとく全裸(ぜんら)にて五色に(いろど)られて水面に浮上(ふじょう)し、下流に向かわず停滞(ていたい)している。
29●市立第一高等女学校の経過(けいか)日誌(にっし)
原爆被災(げんばくひさい)の日から約3ヵ月間の被災(ひさい)日誌(にっし)。学校の被災(ひさい)状況(じょうきょう)や生徒の捜索(そうさくう)状況(じょうきょう)などが記されています。生き残った教師(きょうし)たちは被爆後(ひばくご)1週間、学校の防空(ぼうくう)ごうに()まりこみ、対応(たいおう)奔走(ほんそう)しました。市立第一高等女学校は、県庁付近(けんちょうふきん)建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)にあたっていた1・2年生541人が死亡(しぼう)するという大きな被害(ひがい)を出しました。
  30●(きゅう)広島二中一年生の記録
1969(昭和44)年に広島テレビが作成したドキュメントドラマ「(いしぶみ)」の基礎(きそ)資料(しりょう)となった遺族(いぞく)の手記。県立広島第二中学校1年生209人の被爆(ひばく)状況(じょうきょう)が、遺族(いぞく)の手により書きつづられています。県庁(けんちょう)付近(ふきん)建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)にでていた県立広島第二中学校の生徒321人は、川土手に集合し点呼(てんこ)を受けていた時に被爆(ひばく)(ぜん)(めつ)しました。

31●
河村光子(かわむらみつこ)さん

(当時13(さい))
32●姉が()ったかばん
県庁付近(けんちょうふきん) 材木町(中島町)
爆心地(ばくしんち)から500m
市立第一高等女学校2年生の河村光子(かわむらみつこ)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)。姉の八重子さんは光子さんを(さが)し回りましたが、遺体(いたい)確認(かくにん)することができませんでした。約1ヵ月後、作業(さぎょう)現場(げんば)だった場所でかばんを発見しました。このかばんは、母親の着物から八重子さんが妹のために()ったもの。
 

33●
堀尾英治
(ほりおえいじ)
さん

(当時13(さい))
34●はさみで切って()がせた学生服
県庁付近(けんちょうふきん) 中島新町(中島町)
爆心地(ばくしんち)から600m
県立広島第二中学校1年生の堀尾英治(ほりおえいじ)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)。全身に大やけどを負いました。知らせを受けた母親の敏子(としこ)さんが家に連れ帰りましたが、10日、両親が名前を()びかける中、()くなりました。この学生服は、やけどで皮膚(ひふ)()()いていたため、敏子(としこ)さんがはさみで切って()がせたもの。

  爆心地(ばくしんち)から約600m~900mにあたる土橋付近では、11校、1,530人が建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に動員され、1,264人(83%)が死亡(しぼう)しました。(かわら)(かた)づけはじめていた県立広島第一高等女学校の1年生、荷物を置いて作業にかかろうとしていた広島市立中学校の1・2年生。焼けただれた姿(すがた)で何とか西方面の己斐(こい)へと()げたものも、次々と息を引き取りました。 
35●「全滅(ぜんめつ)」した中学生たち
1945(昭和20)年8月9日 午後4時ごろ 土橋付近
建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)の中学生多数が全滅(ぜんめつ)(なら)んだ死体は女学生のもの。
 
 
36●上半身裸(じょうはんしんはだか)()げる中学生たち 1945(昭和20)年8月6日 朝
己斐(こい)方面へ()げる途中(とちゅう)
何故(なぜ)手ヲオヨガセテイルノカ ワカラナカッタ。手ノ皮ハブラサガッテイル。ナゼミナ裸体(らたい)ナノカ フシギデアッタ。
 
  県立広島第一高等女学校1年生の日記
県立広島第一高等女学校では、土橋付近の建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)にでていた1年生223人が全滅(ぜんめつ)しました。残された日記は組ごとに先生に提出(ていしゅつ)したもので、女学校に入学してからの日々の生活がつづられています。万年筆で書いたもの、鉛筆(えんぴつ)で書いたもの、表紙に千代紙を()ったもの。内容(ないよう)もそれぞれ個性(こせい)(ゆた)かです。
 
  37●
     
熊本悦子(くまもとえつこ)さん
(当時13(さい))
  石堂郁江(いしどういくえ)さん
(当時13(さい))
  森脇瑤子(もりわきようこ)さん
(当時13(さい))
  大下靖子(おおしたのぶこ)さん
(当時13(さい))
 
 
   
山田緑(やまだみどり)さん
(当時13(さい))
  石崎睦子(いしざきむつこ)さん
(当時12(さい))
  梅北トミ子(うめきたとみこ)さん
(当時13(さい))
  38●
 
       
4月6日
今日はいよいよあこがれていた第一県女に入学し、その式がこの最も(はげ)しい戦の真最中に行われた。私達(わたしたち)は校長先生を始め(しょ)先生(せんせい)、上級生の方々の御指導(ごしどう)のもとに一日も早くりっぱな県女の生徒になることをお(ちか)いした。
1年5組 熊本悦子(くまもとえつこ)さん

4月10日
今日弟が四国へ疎開(そかい)をして行った。家に()る時はやかましくて家にいない方がよいと思っていたが、弟がああして行って見るとなんだかさみしい気がして、思い出 すと(なみだ)が出る。 弟をもう少しか愛がってやればよかったとしみじみ感じる。
1年1組 石堂郁江(いしどういくえ)さん

5月26日
帰ると父からお手紙が来ていたので、かばんもおろさないで読んでいると、母が「かばんもおろさないで読んでいるの。まあおちついて読みなさい」とおっしゃった。(わたし)はあまりのうれしさにかばんもおろさないであわてて手紙を読んでいた。
1年6組 大下靖子(おおしたのぶこ)さん

5月31日
今日は、何だか歯が(いた)むので、何も面白くなかった。あまり(いた)いので、もうやめます。上級生は、この日記帳へ千代紙をはっていらっしゃいますが、(わたし)たちもはってよいでしょうか。
1年6組 森脇瑤子(もりわきようこ)さん

  6月17日
今日は一日中家に()た。そして夏服を()った。夕方それを着て、お使いに行った。初めて着たのでうれしくてたまらない。
1年6組 山田緑(やまだみどり)さん

8月5日
午後小西さんと泳ぎに行った。(わたし)はちっともよう泳がないのに、みんなよく()くなと思うとなさけなかった。 今日は大へん良い日でした。
1年4組 石崎睦子(いしざきむつこ)さん

8月5日
今日、美智子(みちこ)(わたし)風呂(ふろ)に入れたので、よろこんでいた。お母さんだと、ゆをとばせばしかられて、(わたし)だと、一しょにゆをとばすので、おもちゃを()かせたりしてよく入った。 夕飯は、うどんだった。(わたし)が、おしるに味をつけてこしらえたので、お父さんも、お母さんも、おいしいおいしいと言われた。
1年4組 梅北トミ子(うめきたとみこ)さん
 


39●自分で()った夏服


土橋付近
爆心地(ばくしんち)から800m
県立広島第一高等女学校1年生の大下靖子(おおしたのぶこ)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)己斐(こい)国民学校に()げた後、救援隊(きゅうえんたい)によって両親のもとに運ばれました。その時はまだ息があり、水を()しがりましたが、当日夜、()くなりました。この夏服は靖子(やすこ)さんが自分で()ったもの。
 

40● 西本博哉(にしもとひろか)さん
(当時12(さい))
41●陶製(とうせい)のボタン
土橋付近 小網町(こあみちょう)
爆心地(ばくしんち)から900m
広島市立中学校1年生の西本博哉(にしもとひろか)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)。母親のヲユキさんは、来る日も来る日も博哉(ひろしかな)さんを(さが)し歩きましたが、遺体(いたい)確認(かくにん)することができませんでした。このボタンは、博哉(ひろか)さんが当日着ていた服についていたもので、服は焼け、ボタンだけが残っていました。

  爆心地(ばくしんち)から約1,000mにあたる市役所付近では、12校、2,331人が建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に動員され、1,749人(75%)が死亡(しぼう)しました。点呼後(てんこご)、作業にとりかかっていた山中高等女学校の1・2年生、持ち場に散って木切れの整理や丸太運びをしていた県立広島第一中学校の1年生。(きず)ついた体で現場(げんば)から()げのびたものも、そのほとんどが避難先(ひなんさき)や路上で力つき、生き残ったものはごくわずかでした。  
 
42●(へい)(たお)れ、動員(どういん)学徒(がくと)の命をさらっていった
1945(昭和20)年8月10日 午前9時ごろ
市役所の(うら)(国泰寺町(こくたいじちょう))
爆風(ばくふう)でコンクリートの(へい)(たお)れ、一瞬(いっしゅん)のうちに、学徒の命をさらっていった。声の(かぎ)りに(むすめ)の名を()んだ。()べども()べども帰って来ない。
  43●大やけどをしながら()げる女生徒たち
1945(昭和20)年8月6日 南大橋付近
(むすめ)市役所(しやくしょ)(うら)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)、全身やけどをし、もう目が見えなくなり動けないまま、「お母さん、お母さん」と()びながら、三時ごろに死にました。

44●
柳生高江(やぎゅうたかえ)さん

(当時13(さい))
45●切り取って()がせたモンペ
市役所付近  雑魚場町(ざこばちょう)(国泰寺町(こくたいじちょう))
爆心地(ばくしんち)から1,000m
山中高等女学校2年生の柳生(やぎゅう)高江(たかえ)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)似島(にのしま)に運ばれました。母親の尚子(ひさこ)さんは必死に(さが)しまわり、焼けた衣服の切れ(はし)がかろうじて体についている状態(じょうたい)高江(たかえ)さんを見つけました。14日、()くなりました。このモンペはやけどで皮膚(ひふ)()()いていたため、切り取って()がせたもの。
 

46●
佐々木一彦(ささきかずひこ)さん

(当時12(さい))
47●大切にしていた布製(ぬのせい)(くつ)
市役所付近  雑魚場町(ざこばちょう)(国泰寺町(こくたいじちょう))
爆心地(ばくしんち)から1,000m
県立広島第一中学校1年生の佐々木(ささき)一彦(かずひこ)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)の待機中に校舎内(こうしゃない)被爆(ひばく)懸命(けんめい)(さが)し歩いていた母親の綾子(あやこ)さんは、8日朝、遺体(いたい)を見つけ、一人で火葬(かそう)しました。数日後、名前を書いたこの(くつ)ががれきの中から見つかりました。一彦(かずひこ)さんは、底に(あな)があいた(くつ)に自分で厚紙(あつがみ)を入れ、()き続けていました。

爆心地(ばくしんち)から約800mにあたる八丁堀(はっちょうぼり)付近(ふきん)では、410人の崇徳(そうとく)中学校1・2年生が建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に動員され、405人(99%)が死亡(しぼう)しました。(かわら)(はい) 材の(かた)づけ作業にとりかかっていた生徒たちは、重傷(じゅうしょう)の体で白島方面へ向かって()げましたが、自力で自宅(じたく)にたどりつくことができたものはほとんどいませんでした。引率(いんそつ)教師(きょうし)全員(ぜんいん)死亡(しぼう)し、生存(せいぞん)確認(かくにん)された生徒はたった5人でした。  
 
爆心地(ばくしんち)から約1,400mにあたる鶴見橋付近(つるみばしふきん)では、12校、1,936人が建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)に動員され、579人(30%)が死亡(しぼう)しました。(かわら)(はこ)びや木切れを集める作業をしていた広島女子商業学校の1・2年生、出動しようと校庭に集合しつつあった進徳(しんとく)高等女学校の2年生。熱線により顔は(ふく)れあがり、 服は焼けちぎれた状態(じょうたい)で、多くの生徒が比治山(ひじやま)を目指して()げましたが、現場(げんば)で作業をしていたうちの約半数が死亡(しぼう)しました。  

48● 岡本昭三(おかもとしょうぞう)さん
(当時12(さい))
49●ボロボロになったズボン
八丁堀付近(はっちょうぼりふきん)
爆心地(ばくしんち)から800m
崇徳(そうとく)中学校1年生の岡本昭三(おかもとしょうぞう)さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)。大やけどを負い、体にはたくさんのガラス(へん)()()さっていました。郊外(こうがい)まで()げたところで動けなくなり、姉が連れ帰って必死に看病(かんびょう)しましたが、7日、母親のマサヨさんが()けつけるのを待つように息を引き取りました。
 

50●
山本百合子(やまもとゆりこ)さん

(当時13(さい))
51●()けた名札のついたブラウス
鶴見橋付近(つるみばしふきん)  鶴見町(つるみちょう)
爆心地(ばくしんち)から約1,500m
広島女子商業学校生徒の山本百合子さんは、建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)現場(げんば)被爆(ひばく)、大やけどを負いました。母親が懸命(けんめい)看病(かんびょう)しましたが、薬もなく、ジャガイモやキュウリをすりおろして()るのが精一杯(せいいっぱい)でした。「川へ()げろ」とつぶやいていましたが、7日、()くなりました。右胸(みぎむね)につけていたセルロイドの名札は()けて曲がっています。


52●広島中央電話局
1945(昭和20)年秋 広島中央電話局2階交換室(こうかんしつ) 袋町(ふくろまち) 爆心地(ばくしんち)から540m
中央電話局では、進徳(しんとく)高等女学校の3年生約110人が動員され、電話の交換(こうかん)業務(ぎょうむ)事務(じむ)についていました。爆風(ばくふう)によりガラスは吹き飛(ふきと)び、器物がたたきつけられる中、即死(そくし)をまぬがれた生徒もほとんどが重傷(じゅうしょう)を負いました。
 
53●中国軍管区(ぐんかんく)司令部

1945(昭和20)年秋 中国軍管区(ぐんかんく)司令部地下通信室 基町(もとまち) 爆心地(ばくしんち)から790m
中国軍管区司令部では、比治山(ひじやま)高等女学校の3年生約90人が動員され、67人が()くなりました。生徒たちは、軍部の作戦・情報(じょうほう)本部(ほんぶ)として使用された地下通信室の中で、暗号通信・警報(けいほう)などの連絡(れんらく)にあたっており、地下室で業務(ぎょうむ)をしていたため(なん)(のが)れた生徒が、広島(ひろしま)壊滅(かいめつ)一報(いっぽう)を伝えました。
 
54●
西丸公子(にしまるきみこ)さん

(当時15(さい))
55●(やぶ)れたモンペ
中国軍管区(ぐんかんく)司令部 基町(もとまち)
爆心地(ばくしんち)から790m
比治山(ひじやま)高等女学校3年生の西丸公子さんは、動員で通信(つうしん)業務(ぎょうむ)についていた時に被爆(ひばく)。顔ははれあがり、「お母さん」と()ぶ声でようやく本人と分かるほどでした。
父親に買ってもらった(くつ)()げる途中(とちゅう)に無くしたことを気にして泣いていました。母親の壽子(ひさこ)さんが必死に看病(かんびょう)しましたが、10日、()くなりました。
 
 

56●
河本明子(かわもとあきこ)さん さん

(当時20(さい))
57●ガラスの()さったピアノ
三滝町(みたきちょう)(三滝本町(みたきほんまち))
爆心地(ばくしんち)から3,000m
広島女学院(じょがくいん)専門学校3年生の河本明子(かわもとあきこ)さんは動員中に幟町(のぼりちょう)被爆(ひばく)。全身にやけどを負いながらも自宅(じたく)近くまでたどりつき、7日、家族に看取(みと)られて()くなりました。このピアノは明子さんが自宅(じたく)()いていたもので、爆風(ばくふう)で左側にガラスが()()さっています。調律(ちょうりつ)され、来年の「ひろしま平和(へいわ)芸術(げいじゅつ)週間」のコンサートで60年ぶりに昔の音色を(かな)でます。

58●校庭を泣きながら()げる女生徒たち
1945(昭和20)年8月6日
原爆投下直後(げんばくとうかちょくご)
第二国民学校 南観音
原爆(げんばく)投下(とうか)直後、動員(どういん)学徒(がくと)(女生徒)が爆風(ばくふう)によるガラス、木材の飛来を受け、血だるまになり、泣きながら校庭に走り出たようす。
 
  59●「お母さん」と(さけ)びながら死んでいった女生徒たち
山中高女の学徒が学徒(がくと)動員(どういん)で工場に来ていたが、まったく無傷(むきず)の少女が口からあわをふいて、「お母さん」と(さけ)びながら、(すわ)ったままで大ぜい死んでいった。


  動員(どういん)学徒(がくと)
-失われた子どもたちの明日-

 ●はじめに
 ●戦時色をおびる学校
 学徒(がくと)動員(どういん)がはじまった
 被害(ひがい)をひろげた建物(たてもの)疎開(そかい)
 ●動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
 ●子どもを(さが)して
 ●焼け野原からの再開(さいかい)
 ●ご協力いただいた方々

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