きかくてんをみよう

■子どもを(さが)して
「○○はいませんか」行方不明となった子どもの姿(すがた)を求めて、家族や教師(きょうし)負傷者(ふしょうしゃ)のひしめく救護所(きゅうごじょ)遺体(いたい)散乱(さんらん)する焼け野原を(さが)し歩きました。かろうじて建物が残った学校には負傷者(ふしょうしゃ)殺到(さっとう)し、息を引き取ったものは次々と校庭で火葬(かそう)されていきました。学校自体も壊滅的(かいめつてき)被害(ひがい)を受けた中、教師(きょうし)たちは焼け(あと)となった学校に急ごしらえの事務所(じむしょ)をおいて、安否(あんぴ)をたずねる家族に対応(たいおう)し、必死に生徒の情報(じょうほう)収集(しゅうしゅう)しました。


60●収容者(しゅうようしゃ)名簿(めいぼ)で肉親を(さが)す人々
1945(昭和20)年8月10日ごろ
住友銀行広島支店(すみともぎんこうひろしましてん) 紙屋町
 
61●袋町国民学校(ぶくろまちこくみんがっこう)(かべ)に書かれた伝言
1945(昭和20)年10月6日 袋町(ふくろまち) 国民学校 袋町(ふくろまち)
紙も鉛筆(えんぴつ)もない焼け跡(やけあと)の学校では、(かべ)に書かれた伝言も重要な連絡(れんらく)手段(しゅだん)の一つでした。

 
   
62●学校に集まる被爆者(ひばくしゃ)
1945(昭和20)年8月7日午後 第二国民学校 南観音
被爆者(ひばくしゃ)が続々と集まった。講堂(こうどう)に満ちあふれ、炎天(えんてん)の下、屋外に横たわったまま次々と絶命(ぜつめい)した。(さけ)び声は親を()び、水を求め、昼夜をわかたず続いた。
  63●校庭で遺体(いたい)を焼く
戸坂国民学校 戸坂(へさか)出江(いずえ)
毎日、今日は135名、今日は98名と続いて死人の山…。木を積み上げて、その上に死人を置き火葬(かそう)していた。中にあどけない、子供(こども)!!子供(こども)!!
  64●修道(しゅうどう)中学校(ちゅうがっこう)戦災(せんさい)記録(きろく)生徒(せいと)情報(じょうほう)記録(きろく)
被爆(ひばく)直後から授業(じゅぎょう)再開(さいかい)(いた)るまでの学校の様子と、死亡(しぼう)などの生徒の消息を記したノート。当時の混乱(こんらん)した状況(じょうきょう)がありありとうかがえます。修道(しゅうどう)中学校は、市役所付近の建物(たてもの)疎開(そかい)作業(さぎょう)にあたっていた2年生180人のうち、136名が死亡(しぼう)するという大きな被害(ひがい)を出しました。


  動員(どういん)学徒(がくと)
-失われた子どもたちの明日-

 ●はじめに
 ●戦時色をおびる学校
 学徒(がくと)動員(どういん)がはじまった
 被害(ひがい)をひろげた建物(たてもの)疎開(そかい)
 動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
 ●子どもを(さが)して
 ●焼け野原からの再開(さいかい)
 ●ご協力いただいた方々

 ▲TOPにもどる