きかくてんをみよう
はじめに
太平洋戦争は長期化し、(はげ)しくなるにつれ、学校教育にも(かげ)を落としました。学生・生徒たちは勉強の機会を(うば)われ、軍需工場(ぐんじゅこうじょう)建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に動員されました。1945(昭和20)年8月6日、広島で約26,800人の学徒が動員され、このうち約7,200人の子どもたちが原子爆弾(げんしばくだん)により()くなりました。中でも凄惨(せいさん)を極めたのは、建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)に動員された学徒たちでした。企画展(きかくてん)では、原爆(げんばく)被害(ひがい)を広げた学徒(がくと)動員(どういん)とその被害(ひがい)を、日誌(にっし)遺品(いひん)など約190点の資料(しりょう)()(かえ)ります。

広島の原子爆弾(げんしばくだん)による動員(どういん)学徒(がくと)死亡者(しぼうしゃ)は約7,200人にのぼります。その膨大(ぼうだい)な数のひとりひとりに名前があり、日々の生活がありました…。

動員(どういん)学徒(がくと)原爆犠牲者を出した学校

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  動員(どういん)学徒(がくと)
-失われた子どもたちの明日-

 ●はじめに
 ●戦時色をおびる学校
 学徒(がくと)動員(どういん)がはじまった
 被害(ひがい)をひろげた建物(たてもの)疎開(そかい)
 動員(どういん)学徒(がくと)被害(ひがい)
 ●子どもを(さが)して
 ●焼け野原からの再開(さいかい)
 ●ご協力いただいた方々

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