1931(昭和6)年 |
9.18 |
「満州事変」が起きる。 |
1932(昭和7)年 |
3.- |
広島市で初の灯火管制を伴う防空演習を実施。 |
1937(昭和12)年 |
7.7 |
日中戦争が始まる。 |
10.1 |
防空法の施行。 |
1939(昭和14)年 |
4.1 |
防護団と消防組を合体し、警防団を組織。 |
1941(昭和16)年 |
8.19 |
市内に120カ所の救護所を設置。 |
9.- |
広島県防空本部開設。 |
12.8 |
太平洋戦争が始まる。 |
12.- |
広島・尾道に防空監視隊が置かれる。 |
1942(昭和17)年 |
4.30 |
戦時災害保護法の施行。 |
1943(昭和18)年 |
1.- |
広島市に東・西特設消防隊が設けられる。 |
3.1 |
東練兵場にて大規模な防空演習を実施。 |
12.- |
中等学校第3学年以上の男女で防空補助隊を結成する。 |
1944(昭和19)年 |
1.26 |
東京と名古屋に初の建物疎開命令が出る。 |
1.- |
医療材料の配給制度が始まる。 |
4.- |
広島、呉両市の警防団の編成を各警察署区域により整備し、防空小区を設ける。 |
5.- |
空襲下の治安維持に備えて、「広島県警察警備隊」が創設される。 |
10.- |
広島県下に36の広島地区特設警備隊を設ける。 |
11.11 |
B29、1機が御調郡原田村に爆弾10個を投下。広島県の空襲の最初。 |
11.18 |
広島市で第一次建物疎開の実施。原爆投下まで計6回実施。 |
1945(昭和20)年 |
3.18
~19 |
B29、1機による広島市への小空襲。死者10人。 |
3.- |
県庁内に県防空本部、市役所内に市防空本部を設置。県警察部は市役所内に移転。 |
4.- |
空襲による罹災者の受け入れ態勢についての要領を作成。 |
4.3 |
広島市の学童疎開第一陣出発。 |
4.7 |
本土決戦に備え、第二総軍司令部を広島に設置。 |
4.17 |
広島市大避難実施要領を作成。 |
6.- |
罹災者に対する給食対策計画を作成。 |
6.- |
国民義勇兵役法、国民義勇戦闘隊統率令を制定。広島市では、職域義勇隊と地域義勇隊を編成。国民義勇隊は、国民学校初等科終了以上の男子65歳、女子45歳までのすべてをその組織の対象とする。 |
7.1
~2 |
B29延べ約80機が呉市全域を空襲。 |
8.6 |
8:15 |
原子爆弾の投下。 |
8:50 |
陸軍船舶司令部所属部隊「暁部隊」、消火艇で京橋川両岸の消火。救難艇で負傷者を陸軍運輸部似島検疫所搬送に。 |
9:30 |
「暁部隊」、消火艇で元安川をさかのぼり、広島赤十字病院付近で消火活動。 |
10:40 |
「暁部隊」、専売局付近で消火活動。元安川南大橋付近で救援活動。 |
11:00 |
県下警察署へ救援を要請。海田市方面、廿日市、大竹、可部方面へ徒歩の連絡員を派遣。 |
11:30 |
「暁部隊」の全部隊、日常業務を停止し、救援活動に従事。 |
12:00 |
「暁部隊」、猿猴川をさかのぼり、比治山北側地区で消火活動。 |
13:00 |
救援の連絡を受けて廿日市、可部両署から応援隊が市庁舎の県警察部に到着。 |
13:10 |
「暁部隊」、南大橋付近で消火活動。 |
13:25 |
呉海軍鎮守府救援隊、鷹野橋付近で救援活動。 |
14:00 |
第二総軍司令部は、独断で市内に戒厳令を施き、陸軍船舶司令官を広島警備担任司令官に任命する。 |
16:00 |
傷痍軍人広島療養所の救護班が荒神橋に到着。 |
16:00 |
「暁部隊」、比治山橋付近で負傷者の収容。 |
16:40 |
「暁部隊」、南大橋・明治橋・住吉橋付近で救援活動。 |
16:50 |
「暁部隊」、罹災者用衣糧として乾パン、作業衣袴.蜜柑瓶詰を市に交付。 |
17:00頃 |
石原虎好警察部長が比治山の多聞院で、県防空本部を設置。 |
18:00頃 |
呉海軍鎮守府救援隊、東練兵場で海軍救護本部を設置。 |
18:30 |
出張中の高野県知事が多聞院の県防空本部に到着。 |
19:00過ぎ |
尾道市医師会派遣の救護班2班がトラック2台に分乗して多聞院の県防空本部に到着。 |
20:30 |
県防空本部、内務省及び近県に対する報告。近県、県下各警察署への救援要請。 |
23:00頃 |
賀茂海軍衛生学校の救援隊が東練兵場に到着。治療活動を開始。 |
23:00過ぎ |
豊田郡南部医師会派遣救護班が東練兵場に到着。 |
8.7 |
1:00 |
県防空本部が東警察署の2階に移る。 |
1:00 |
賀茂郡北部医師会救護班が多聞院に到着。早朝から東練兵場で救護活動。 |
2:30 |
双三郡医師会の救護班が多聞院に到着。住吉橋で救護活動にあたる。 |
3:00
~
4:00 |
甲奴郡医師会救護班が多聞院に到着。 |
6:00 |
県知事が東警察署に入り、仮県庁となる。 |
6:00 |
神石郡医師会救護班が東警察署に到着。縮景園で救護活動を行う。 |
早朝 |
大竹海兵団からの救護班が到着。 |
9:00 |
広島中央放送局が園町の原放送所で県知事の告諭を放送。 |
10:00
~
12:00 |
第二総軍司令部で軍・官・民の代表者が救援活動についての会議。第二総軍司令部が救援・救護の指揮をとる。県知事の告諭、救護所布告を市内各所に掲示。 |
12:00 |
世羅郡医師会救護班が広島市信用組合本部に到着し、救護活動を行う。 |
夕方 |
宇品線が平常運転となる。 |
8.7 |
広島電鉄宮島線が運転を再開。岡山県医師会救護班が到着。宇品方面に送電開始。 |
8.8 |
広島駅一帯で電気の復旧。
山陽本線が開通する。芸備銀行など12の銀行が日本銀行広島支店で預金払戻し業務を再開。島根県、山口県医師会救護班が到着。 |
8.9 |
西天満町~己斐間で市内電車の片側運転が行われる。バス2台も広島駅~比治山~宇品間を運行。芸備線が全線開通。
鳥取県医師会救護班が到着。中国新聞社が代行印刷で新聞を発行。 |
8.10 |
兵庫県医師会救護班が到着。 |
8.11 |
大阪府医師会救護班が到着。千田町の広島貯金支局で業務を再開。貯金や簡易保険の払戻を行う。市内の上水道が給水可能となる。 |
8.12 |
市内17カ所に食糧営団配給所を16カ所に食料品組合配給所を開設し、通常配給を開始。 |
8.13 |
連合町内会長らが市役所で当面の生活問題について会議を開く。 |
8.14 |
軍関係に収容されていた約1万5000人の患者を県が引き取り、廿日市・可部・大竹などの救護所に割り当てる。
広島市医師会の再建。 |
8.15 |
終戦。第二総軍司令部から県や市が中心となって救援活動を行う。広島中央電話局が、電話の交換業務を再開。 |
8.17 |
胡町の福屋百貨店ビル内に臨時伝染病病院を設置。 |
8.18 |
市内電車、電鉄本社~宇品間、土橋~己斐間の運転を開始。
可部線が全線開通。 |
8.20 |
県庁を東警察署から東洋工業の3階に移転。衛生課は、袋町国民学校に移転。 |
8.30 |
東京帝国大学医学部の都築教授、広島戦災再調査班を構成し広島で調査を開始。 |
9.3 |
広島県主催の「原子爆弾症」講演会で都築正男博士らが講演。 |
9.上旬 |
ジュノー博士の提言により、進駐軍が飛行機からDDTを撒布。ハエは急激に減る。 |
9.10 |
ジュノー博士、福屋百貨店、袋町国民学校をはじめとする救護所を訪れ、治療を行う。 |
9.11 |
ジュノー博士の15トンの医薬品が広島駅に到着。トラック2台で衛生課との間をピストン輸送する。 |
9.14 |
文部省学術研究会議が原子爆弾災害調査研究特別委員会を設置。 |
9.17 |
枕崎台風のため市内が被害を受ける。市内の多くの橋が落橋。 |
10.5 |
戦時災害保護法に基づく2カ月の救援・救護を終了。救護所を閉鎖し、国民医療法に基づく日本医療団病院を開設。 |