きかくてんをみよう
大混乱(だいこんらん)の中の救援(きゅうえん)活動
空襲(くうしゅう)(そな)えて計画された広島市の防空(ぼうくう)・救援体制(たいせい)は、
原爆(げんばく)により一瞬(いっしゅん)のうちに壊滅(かいめつ)しました。
市役所や県庁(けんちょう)はその機能(きのう)(うしな)い、交通や通信も麻痺(まひ)状態となって、
市内は大混乱に(おちい)りました。

こうした混乱の中、被爆(ひばく)当日から、
次々と集まってくる負傷者(ふしょうしゃ)を前に、救援活動が()り広げられました。
陸軍船舶(せんぱく)司令部所属(しょぞく)部隊(通称(つうしょう)(あかつき)部隊」)をはじめとする軍関係者や
生き残った医師(いし)警察官(けいさつかん)が中心となったのです。


「暁部隊」の救援活動 収容された負傷者
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(あかつき)部隊」の救援(きゅうえん)活動
1945(昭和20)年8月6日
/堺町(爆心地(ばくしんち)から1,050m)

いちはやく救援活動を行ったのは、爆心地(ばくしんち)から約4キロメートル(はな)れ、被害(ひがい)の少なかった陸軍船舶(せんぱく)司令部所属(しょぞく)部隊(通称(つうしょう)(あかつき)部隊」)でした。市内の中心部は火の(いきお)いが強かったため船で川を上り、消火活動や負傷者(ふしょうしゃ)救護(きゅうご)にあたりました。
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収容(しゅうよう)された負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月6日
/陸軍運輸部似島検疫所(爆心地(ばくしんち)から9,000m)

(きず)ついた多くの人々が、宇品(うじな)の港から「(あかつき)部隊」により、次々と船で広島(わん)上の似島(にのしま)に運ばれました。広い検疫所(けんえきじょ)の建物の内も外もたちまちいっぱいとなりました。
負傷者の応急手当をする警察官 救護かばん、医薬品
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負傷者(ふしょうしゃ)応急(おうきゅう)手当をする警察官(けいさつかん)
1945(昭和20)年8月6日/御幸橋(爆心地(ばくしんち)から2,270m)
爆心地(ばくしんち)近くの屋外で被爆(ひばく)した人の多くは、強烈(きょうれつ)熱線(ねっせん)で服を焼かれ、ひどい火傷(やけど)を負っていました。人々は火災(かさい)(のが)れて橋のたもとや河原(かわら)に集まりました。市内の医師(いし)や警察官が負傷しながらも()けつけ、治療(ちりょう)活動を始めました。
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救護(きゅうご)かばん、医薬品
罹災証明書の発行 罹災証明書
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罹災証明書(りさいしょうめいしょ)



罹災証明書
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罹災証明書(りさいしょうめいしょ)
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罹災証明書(りさいしょうめいしょ)発行(はっこう)
1945(昭和20)年8月6日/皆実町3丁目(爆心地(ばくしんち)から2,500m)
被災(ひさい)した人々には、被爆(ひばく)直後から罹災証明書が交付(こうふ)されました。これにより食糧(しょくりょう)配給(はいきゅう)を受けたり、無料で交通機関を利用することができました。広島市内でも被爆当日から、警察官(けいさつかん)などが多くの人々に証明書を書きました。
押し寄せる負傷者たち 郊外に逃げる負傷者の列
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()()せる負傷者(ふしょうしゃ)たち
1945(昭和20)年8月6日
/広島赤十字病院 千田町1丁目(爆心地(ばくしんち)から1,500m)

建物が大破(たいは)しながらもかろうじて外観(がいかん)が残った広島赤十字(せきじゅうじ)病院や逓信(ていしん)病院には、被爆(ひばく)直後から負傷者が助けを求めて押し寄せました。医師(いし)看護婦(かんごふ)もその多くが(きず)ついていましたが、被爆当日から懸命(けんめい)治療(ちりょう)を行いました。
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郊外(こうがい)()げる負傷者(ふしょうしゃ)の列
1945(昭和20)年8月6日/可部線電車道
火災(かさい)(のが)れ、助けを求める被災者(ひさいしゃ)の中には、市内から郊外へ向かった人々も多くいました。郊外へ通じる道には、負傷者の長い列が続き、周辺の町や村では人々が協力して負傷者を収容(しゅうよう)治療(ちりょう)にあたりました。
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広島市内へ向かう救護班(きゅうごはん)
1945(昭和20)年8月
/傷痍軍人広島療養所 賀茂郡西条町(現在の東広島市)

被災者(ひさいしゃ)郊外(こうがい)(のが)れる一方で、壊滅(かいめつ)された広島市内へ救援(きゅうえん)に向かう人々がいました。周辺の市町村では、広島市が空襲(くうしゅう)を受けると、救護班を編成(へんせい)し、市内へ救援に向かうことが決められていました。
広島市内へ向かう救護班
臨時救護所の設置 26
臨時(りんじ)救護所(きゅうごしょ)設置(せっち)
1945(昭和20)年8月6日/比治山(爆心地(ばくしんち)から1,750m)
空襲(くうしゅう)(そな)えて(もう)けられていた救護所は、ほとんどが原爆(げんばく)により壊滅(かいめつ)しました。治療(ちりょう)負傷者(ふしょうしゃ)が集まった場所で行われ、そのまま臨時の救護所となることも少なくありませんでした。
男の子女の子、おばあちゃん
腕章 負傷者におにぎりを配る
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腕章(わんしょう)

隊医きゅう
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隊医(たいい)きゅう
隊医きゅうは陸軍が応急(おうきゅう)手当用に使用した医薬品箱です。
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負傷者(ふしょうしゃ)におにぎりを配る
1945(昭和20)年8月6日/千田町(爆心地(ばくしんち)から2,000m)
被災(ひさい)した人々のために食料はいち早く運ばれてきました。()き出しのおにぎりや(かん)パンが配られましたが、負傷した人々は食べる気力さえ失っていました。
新たな防空本部の設置 30
新たな防空(ぼうくう)本部の設置(せっち)
1945(昭和20)年9月下旬
/多聞院 段原町(現在の比治山本町)
爆心地(ばくしんち)から1,750m)

県庁(けんちょう)にあった広島県防空本部は、救援(きゅうえん)活動などの指揮(しき)をとる役割(やくわり)(にな)っていましたが、原爆(げんばく)により県庁は全壊(ぜんかい)し、防空本部の活動は麻痺(まひ)しました。ようやく新しい防空本部が、被爆(ひばく)から9時間たった午後5時頃、比治山(ひじやま)の多聞院に設置(せっち)されました。

  焼け野原に人々を助けて
~薬も食べ物もない中で続けられた救(えん)活動~
 空襲(くうしゅう)に備えて
 ●大混乱(だいこんらん)の中の救(えん)活動
 ●本格的な救(えん)活動へ
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(1)
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(2)
 防空(ぼうくう)救援体制(きゅうえんたいせい)に関する年表

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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