きかくてんをみよう
肉親の消息を尋ねて マルセル・ジュノー博士の尽力により提供された医薬品
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肉親の消息(しょうそく)(たず)ねて
1945(昭和20)年8月12日
/宇品町(爆心地(ばくしんち)から3,900m)

救護所(きゅうごしょ)には、行方(ゆくえ)不明の家族や知人を(さが)しに多くの人が(おとず)れました。救護所では、収容者名簿(しゅうようしゃめいぼ)を作成し、住所・氏名を書いた名札を負傷者(ふしょうしゃ)に取り付けるなどしていました。
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マルセル・ジュノー博士(はかせ)尽力(じんりょく)により提供(ていきょう)された医薬品

救護所(きゅうごしょ)で不足していた医薬品の援助(えんじょ)は、周辺地域(ちいき)からだけでなく海外からもありました。赤十字国際委員会(せきじゅうじこくさいいいんかい)駐日主席(ちゅうにちしゅせき)代表のマルセル・ジュノー博士は、連合国軍総司令部に交渉(こうしょう)して入手した、約15トンの医薬品を広島県知事に提供しました。
送葬届 61
送葬届(そうそうとどけ)

この送葬届は、救護所(きゅうごしょ)()くなった人々を火葬(かそう)するために作成されたものです。本籍地(ほんせきち)や氏名、死亡(しぼう)場所、死亡原因(げいいん)などが(しる)されています。
「戦災死検調書(海田市警察署)」 62
戦災死検調書(せんさいしけんちょうしょ)(海田市警察署)」

戦災死検調書には、救護所(きゅうごしょ)収容(しゅうよう)された人々の名前や住所、死因(しいん)などが記載(きさい)されており、「火傷(やけど)」や「焼死(しょうし)」など、被爆(ひばく)当時の状況(じょうきょう)生々(なまなま)しく伝えています。
急性障害の発生 出血斑が顔に出た兵士
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急性障害(きゅうせいしょうがい)発生(はっせい)
1945(昭和20)年8月28日
原爆(げんばく)による人体への影響(えいきょう)は、火傷(やけど)外傷(がいしょう)だけにとどまりませんでした。体のだるさ、高熱(こうねつ)下痢(げり)が続き、髪の毛が()け、体には出血(はん)(あらわ)れるなどの症状(しょうじょう)が見られました。被爆(ひばく)直後からその年の終わり頃までの短期間(たんきかん)に現れたもので、急性障害と()ばれています。
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出血(はん)が顔に出た兵士
1945(昭和20)年9月3日
爆心地(ばくしんち)から1,000mの木造家屋で被爆/広島第一陸軍病院宇品分院

出血斑は急性障害(きゅうせいしょうがい)特徴的(とくちょうてき)症状(しょうじょう)のひとつでした。出血斑ができた人々の多くが()くなっていくため、「死の斑点(はんてん)」として(おそ)れられました。写真の兵士は、斑点ができてから5日後に亡くなりました。
放射線の影響を知らずに 65
放射線(ほうしゃせん)影響(えいきょう)を知らずに
1945(昭和20)年8月9日/紙屋町付近(爆心地(ばくしんち)から300m)
急性障害(きゅうせいしょうがい)は、直接被爆(ひばく)した人のみではなく被爆直後に入市した人々にも(あらわ)れました。市内には、数日間、人体に有害(ゆうがい)な量の放射線が残っていたのです。救援(きゅうえん)活動を終え、地元に帰ってから症状(しょうじょう)が出る人々が多く見られました。
女の子、男の子、おばあちゃん
さまざまな民間療法 急性障害の研究
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さまざまな民間療法(みんかんりょうほう)
1945(昭和20)年10月20日
/尾長町(爆心地(ばくしんち)から2,800m)

医薬品や食糧(しょくりょう)は不足し、十分な治療(ちりょう)を受けることができずに多くの人々が急性障害(きゅうせいしょうがい)に苦しみました。効果的(こうかてき)な治療法もわからないまま、さまざまな民間療法が広まり、人々はわらをもつかむ思いでそれを(こころ)みました。お(きゅう)もそのひとつでした。
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急性障害(きゅうせいしょうがい)研究(けんきゅう)
1945(昭和20)年9月11日
/大野陸軍病院 佐伯郡大野町

被爆(ひばく)直後から、軍や大学の調査団(ちょうさだん)が広島に入り、原爆(げんばく)被害(ひがい)について調査研究を行いました。東京帝国(ていこく)大学(現在(げんざい)の東京大学)調査団の都築正男博士(はかせ)は、急性障害の症状(しょうじょう)(くわ)しい研究結果に(もと)づいて十分な休養(きゅうよう)とビタミンなどの栄養補給(えいようほきゅう)効果的(こうかてき)であると発表しました。
救護所の閉鎖 68
救護所(きゅうごしょ)閉鎖(へいさ)
1945(昭和20)年10月6日
/袋町国民学校 袋町(爆心地(ばくしんち)から460m)

救援(きゅうえん)・救護活動は、戦時災害保護法(せんじさいがいほごほう)により、被爆(ひばく)から2カ月間続けられました。10月5日以後は、大部分の救護所が閉鎖されました。多くの負傷者(ふしょうしゃ)治療(ちりょう)した袋町国民学校救護所は、翌年(よくねん)まで治療活動が行われましたが、学校の再開(さいかい)とともに閉鎖されました。
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続く被爆者(ひばくしゃ)治療(ちりょう)
1945(昭和20)年11月13日
原爆(げんばく)による放射線(ほうしゃせん)は、急性障害(きゅうせいしょうがい)だけでなく、長期にわたってさまざまな障害を引き起こしました。ケロイドや被爆後、何年かたってガンや白血病を発病(はつびょう)する人々の割合(わりあい)が多くなりました。放射線の影響(えいきょう)については、現在(げんざい)でも十分に解明(かいめい)されておらず、調査(ちょうさ)研究(けんきゅう)が行われています。
続く被爆者の治療

  焼け野原に人々を助けて
~薬も食べ物もない中で続けられた救(えん)活動~
 空襲(くうしゅう)に備えて
 大混乱(だいこんらん)の中の救(えん)活動
 ●本格的な救(えん)活動へ
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(1)
 ●救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(2)
 防空(ぼうくう)救援体制(きゅうえんたいせい)に関する年表

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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