きかくてんをみよう
おばあちゃん、男の子、女の子

空襲(くうしゅう)(そな)えて
1931(昭和6)年、「満州事変(まんしゅうじへん)」をきっかけに
日本は、長い戦争に突入(とつにゅう)しました。
1937(昭和12)年には防空法(ぼうくうほう)制定(せいてい)され、
空襲に備えて消防・避難(ひなん)救護(ひなん)などの訓練(くんれん)を行う「防空演習(えんんしゅう)」が
本格的(ほんかくてき)に行われるようになりました。

戦局(せんきょく)悪化(あっか)すると広島市でも空襲を想定(そうてい)して、
学童疎開(がくどうそかい)や建物疎開がすすめられ、
また、周辺の市町村からの食糧(しょくりょう)や衣類の輸送(ゆそう)被災者(ひさいしゃ)の受け入れ、
避難方法などが取り決められました。


戦争のはじまり 1
戦争のはじまり
1938(昭和13)年4月28日、29日
/中国江蘇省

1937(昭和12)年7月7日、北京(ぺきん)郊外(こうがい)盧溝橋(ろこうきょう)での中国軍との衝突(しょうとつ)は、日本と中国の全面的な戦争に発展(はってん)し、多くの兵士が戦場に(おもむ)きました。
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本格化(ほんかくか)する防空演習(ぼうくうえんしゅう)
1933(昭和8)年8月6日
/賀茂郡広村(現在の呉市広)

航空機(こうくうき)の急速な発達により、戦いは戦場にとどまらず、戦地と離れた一般市民(いっぱんしみん)にまで(およ)ぶようになったのです。空襲(くうしゅう)(そな)えた防空演習が、さかんに行われるようになりました。
本格化する防空演習
警防団の結成 警防団の腕章
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警防団(けいぼうだん)の結成

防空体制(ぼうくうたいせい)をより強化し空襲(くうしゅう)や災害(さいがい)から市民を守るため、1939(昭和14)年に警防団が結成されました。警防団員は、普段は、それぞれの仕事に()いていましたが、空襲が起こると警察(けいさつ)指揮(しき)(もと)警報(けいほう)の伝達・消火・避難誘導(ひなんゆうどう)救護(きゅうご)などを行いました。
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警防団(けいぼうだん)腕章(わんしょう)
町内あげての防空演習 防空頭巾
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町内あげての防空演習(ぼうくうえんしゅう)
1940(昭和15)年/比治山本町
警防団(けいぼうだん)指導(しどう)(もと)、町内会で防空演習が行われ、消防訓練(しょうぼうくんれん)では、人々はバケツリレーで消火作業(しょうかさぎょう)(はげ)みました。
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防空頭巾(ぼうくうずきん)
家庭での備え 灯火管制用電球
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家庭での(そな)

防空(ぼうくう)に関する冊子(さっし)やポスターが隣組(となりぐみ)に配られ、空襲(くうしゅう)にどのように備えるかが徹底(てってい)されました。家庭で用意するもの、防空壕(ぼうくうごう)の作り方、家の明かりを外にもらさないようにする灯火管制(とうかかんせい)の方法などが細かく指導(しどう)してありました。
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灯火管制(とうかかんせい)用電球
広島市医師会救護班の結成 防空業務従事令書
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広島市医師(いし)救護班(きゅうごはん)の結成
1942(昭和17)年/広島護国神社 基町
空襲(くうしゅう)を受けた場合の救護活動に(そな)えて、医療(いりょう)関係者は疎開(そかい)禁止(きんし)されました。医師、歯科(しか)医師、薬剤師(やくざいし)看護婦(かんごふ)事務員(じむいん)でひとつの救護班を組織(そしき)し、この救護班を中心に、町内会や警防団(けいぼうだん)が救護にあたることになっていました。
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防空業務(ぼうくうぎょうむ)従事令書(じゅうじれいしょ)

防空業務の中でも負傷者(ふしょうしゃ)手当(てあ)ては、非常(ひじょう)重要(じゅうよう)な仕事でした。医師(いし)看護婦(かんごふ)などには、防空業務従事令書が交付(こうふ)されました。
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おにぎりの()き出し

空襲(くうしゅう)(そな)えて、被災者(ひさいしゃ)収容(しゅうよう)食糧(しょくりょう)や衣類などの援助(えんじょ)も計画されました。広島市が空襲を受けた時は、周辺の町や村では、学校や寺を避難(ひなん)場所として提供(ていきょう)し、おにぎりの炊き出しをしたり、衣類を配布(はいふ)することが求められていました。
おにぎりの炊き出し
広島市の避難計画
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広島市の避難(ひなん)計画

空襲(くうしゅう)により大火災(だいかさい)発生(はっせい)した時に(そな)えて、1945(昭和20)年4月に「広島市大避難実施要領(じっしようりょう)」が制定(せいてい)されました。町内会ごとに避難先が指定され、食糧(しょくりょう)や医薬品などが備蓄(びちく)されました。
激しさを増す空襲 原子爆弾の投下
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(はげ)しさを増す空襲(くうしゅう)
1945(昭和20)年7月2日/呉市
戦局(せんきょく)悪化(あっか)(ともな)って米軍(べいぐん)の空襲は、激しさを増していきました。初めは、軍需(ぐんじゅ)工場や軍の施設(しせつ)目標(もくひょう)とされましたが、しだいに一般市民(いっぱんしみん)対象(たいしょう)とした無差別攻撃(むさべつこうげき)となりました。
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原子爆弾(ばくだん)投下(とうか)
1945(昭和20)年8月6日
1945(昭和20)年8月6日に広島市に投下された原子爆弾は、強い熱線(ねっせん)爆風(ばくふう)を生み出し、人体に深刻(しんこく)影響(えいきょう)(あた)える有害(ゆうがい)放射線(ほうしゃせん)を多量に放出しました。たった一発の爆弾で、広島市の大部分が焼け野原となり、多くの人々が()くなりました。
焼け野原となった街
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焼け野原となった街
1945(昭和20)年8月7日/福屋百貨店から南東を(のぞ)む 胡町(爆心地(ばくしんち)から800mm)
おばあちゃん、男の子、女の子

  焼け野原に人々を助けて
~薬も食べ物もない中で続けられた救(えん)活動~
 ●空襲(くうしゅう)に備えて
 大混乱(だいこんらん)の中の救(えん)活動
 ●本格的な救(えん)活動へ
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(1)
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(2)
 防空(ぼうくう)救援体制(きゅうえんたいせい)に関する年表

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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