きかくてんをみよう
救護所(きゅうごしょ)惨状(さんじょう)と人々の苦しみ

数多くの負傷者(ふしょうしゃ)収容(しゅうよう)した救護所には、
ベッドもなく、薬品も不足していました。
火傷(やけど)外傷(がいしょう)のほかに、原爆(げんばく)による放射線(ほうしゃせん)は、
人々にこれまでに見られなかった深刻(しんこく)障害(しょうがい)を引き起こしました。
効果的な治療法もなく、収容された人々は次々と亡くなりました。
負傷者は()()なく運ばれ、
救護する側の人々も
疲労(ひろう)残留放射線(ざんりゅうほうしゃせん)による被爆(ひばく)のため
体調を(くず)していきました。


負傷者でいっぱいになった救護所 苦しむ負傷者
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負傷者(ふしょうしゃ)でいっぱいになった救護所(きゅうごしょ)
1945(昭和20)年8月
/第一国民学校 段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)

救護所には、次々と負傷者が運ばれ、すきまのないほどの人であふれていました。救護所の多くはベッドがなく、むしろやゴザ、(たたみ)()いてその上に人々を()かせていました。
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苦しむ負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月/第一国民学校 段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)
負傷者の多くは、ひどい火傷(やけど)外傷(がいしょう)を負い苦しんでいました。備蓄(びちく)されていた医薬品や衛生材料(えいせいざいりょう)はすぐに使い果たし、赤チンや食用油を塗るだけの応急処置(おうきゅうしょち)精一杯(せいいっぱい)でした。
絶え間なく続く治療 懸命の看護を続ける人々
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()()なく続く治療
1945(昭和20)年8月
/第一国民学校 段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)

治療(ちりょう)を行う医師(いし)看護婦(かんごふ)も十分ではありませんでした。各地から来た救護班(きゅうごはん)がそれぞれの救護所に()り当てられましたが、負傷者(ふしょうしゃ)は次々と収容(しゅうよう)され、治療は絶え間なく続きました。
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懸命(けんめい)看護(かんご)を続ける人々
1945(昭和20)年8月
/第一国民学校 段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)

家族の回復(かいふく)を願って懸命の看護を続ける人の姿(すがた)がありました。しかし、家族の(むか)えを待ちながら()とられることもなく孤独(こどく)のまま()くなる人も数多くいました。
救護所での食事 広島第二陸軍病院収容テント内
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救護所(きゅうごしょ)での食事
1945(昭和20)年8月
救護所での食事の(おも)なものは、各地から運ばれてきた()き出しのおにぎりでした。負傷者が食べやすいようにオカユを作ったところもありました。しかし、多くの負傷者は食欲(しょくよく)もなく、枕元(まくらもと)に置かれた食事にはハエが集まりました。
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広島第二陸軍病院収容(しゅうよう)テント内
1945(昭和20)年8月7日 基町(爆心地(ばくしんち)から1,100m)
第一国民学校救護所 陸軍船舶練習部
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第一国民学校救護所(きゅうごしょ)
1945(昭和20)年8月/段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)
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陸軍船舶(せんぱく)練習部
1945(昭和20)年8月/宇品町(爆心地(ばくしんち)から4,300m)
第一国民学校救護所 陸軍運輸部似島検疫所
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第一国民学校救護所(きゅうごしょ)
1945(昭和20)年8月/段原山崎町(爆心地(ばくしんち)から2,600m)
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陸軍運輸(うんゆ)似島(にのしま)検疫所(けんえきじょ)
1945(昭和20)年8月7日/似島(爆心地(ばくしんち)から9,000m)
看護婦の制服 看護婦の制帽

看護婦の腕章
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看護婦(かんごふ)制帽(せいぼう)

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看護婦(かんごふ)腕章(わんしょう)

広島赤十字病院 千田町1丁目(爆心地(ばくしんち)から1,350m)
広島赤十字(せきじゅうじ)病院付属(ふぞく)看護(かんご)学校の生徒だった上野照子さんは、病院内の寄宿舎(きしゅくしゃ)被爆(ひばく)しましたが、ほとんど無傷(むきず)でした。病院には負傷者(ふしょうしゃ)があふれており、薬品が不足する中、10月まで救護(きゅうご)活動を行いました。制帽は、寄宿舎の焼け(あと)で見つかったものです。
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看護婦(かんごふ)制服(せいふく)
広島第二陸軍病院 基町(爆心地(ばくしんち)から1,050m)
負傷者(ふしょうしゃ)救護(きゅうご)活動を行った時に着用(ちゃくよう)していたものです。大井松恵さんは、看護婦として広島第二陸軍病院に勤務中(きんむちゅう)被爆(ひばく)負傷(ふしょう)しました。体調が悪く、食事もとれない状態(じょうたい)でしたが、1週間に渡って負傷者の治療(ちりょう)にあたりました。

  焼け野原に人々を助けて
~薬も食べ物もない中で続けられた救(えん)活動~
 空襲(くうしゅう)に備えて
 大混乱(だいこんらん)の中の救(えん)活動
 ●本格的な救(えん)活動へ
 ●救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(1)
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(2)
 防空(ぼうくう)救援体制(きゅうえんたいせい)に関する年表

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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