きかくてんをみよう
本格的(ほんかくてき)救援(きゅうえん)活動へ
被爆(ひばく)当日、混乱(こんらん)の中で行われた救援活動は、
翌日(よくじつ)の7日以降、ようやく組織的(そしきてき)なものとなりました。
新しく設置(せっち)された県防空(ぼうくう)本部から6日の夜に
県内や近県の警察署(けいさつしょ)
医薬品や食糧(しょくりょう)などの具体的(ぐたいてき)救援要請(きゅうえんようせい)が発せられました。
それに(おう)じて県内だけでなく、県外各地から救援隊が広島に続々と入り、
負傷者(ふしょうしゃ)搬送(はんそう)や救援物資(ぶっし)輸送(ゆそう)などが
活発に行われるようになりました。


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救援体制(きゅうえんたいせい)確立(かくりつ)
1945(昭和20)年11月頃
/東警察署 下柳町(現在の銀山町)(爆心地(ばくしんち)から1,210m)

8月7日の早朝、防空(ぼうくう)本部は比治山(ひじやま)の多聞院から市の中心部にある東警察署(けいさつしょ)に移されました。被災者(ひさいしゃ)保護(ほご)や市内の復旧(ふっきゅう)について協議(きょうぎ)が行われ、その後の救援活動の拠点(きょてん)となりました。
救援体制の確立
届けられた救援物資 32
届けられた救援物資(きゅうえんぶっし)

市内には、各地から救援物資が運ばれてきました。米や麦など食糧(しょくりょう)(おも)なものでした。また、食器(しょっき)草履(ぞうり)などの生活用品もありました。
(1)米:約916(ぴょう)
(2)塩:83俵
(3)醤油(しょうゆ):33701リットル
(4)(かん)パン:3300個
(5)麦:4俵
(6)缶詰(かんづめ):9214箱
(7)食用油:262kg
(8)野菜:10173kg
(9)(まき):24260(たば)
(10)梅干(うめぼし):28653kg
(11)味噌(みそ):11756kg
8月6日戦災による握り飯割り当て表 防空本部に運び込まれる救援物資
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8月6日戦災(せんさい)による(にぎ)(めし)()り当て表
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防空(ぼうくう)本部に運び込まれる救援物資(きゅうえんぶっし)
1945(昭和20)年8月8日/東警察署 下柳町(現在の銀山町)(爆心地(ばくしんち)から1,210m)
救援物資はトラックや列車(れっしゃ)()()まれ、防空本部があった東警察署(けいさつしょ)や直接、救護所(きゅうごしょ)などに運ばれました。戦時中に(もう)けられた配給所は原爆(げんばく)により破壊(はかい)されたため、救援の警察官や警防団員(けいぼうだんいん)が物資の配給にあたりました。
県内警防団員の出動状況
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県内警防団員(けいぼうだんいん)の出動状況(じょうきょう)

被爆(ひばく)当日から、県内各地の警防団が続々と救援(きゅうえん)のために市内に入り、その数は8月中で()べ2万1千人にのぼりました。警防団員は、警察(けいさつ)指揮(しき)(もと)瓦礫(がれき)除去(じょきょ)負傷者(ふしょうしゃ)搬送(はんそう)、死体の収容(しゅうよう)火葬(かそう)などを行いました。人数は、記録の残っているものだけなので、実際(じっさい)は、これよりも多くの人々が来援(らいえん)したと思われます。
亡くなった人々を荼毘に付す

たんか
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()くなった人々を荼毘(だび)()

1945(昭和20)年8月8日/紙屋町電車通り(爆心地(ばくしんち)から300m)
焼け(あと)には、身元(みもと)不明の死体が数多くありました。これらは、河原(かわら)や学校の校庭などに集められ、荼毘に付されました。市内の(いた)る所で毎日のように火葬(かそう)する(けむり)が立ち上っていました。
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たんか
男の子、女の子 おばあちゃん
県内、県外からの救護班の到着
県内、県外からの救護班の到着
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県内、県外からの救護班(きゅうごはん)到着(とうちゃく)

医師(いし)看護婦(かんごふ)保健婦(ほけんふ)などを中心とした県内の救護班の出動は被爆(ひばく)当日から2カ月間で()べ2万1千人を()えました。県外では岡山・島根・山口などの隣県(りんけん)や遠く兵庫・大阪からも救援(きゅうえん)がありました。人数は、記録の残っているものだけなので、実際(じっさい)は、これよりも多くの人々が来援(らいえん)したと思われます。
治療活動を行う救護班 川岸に設けられた救護所のテント
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治療(ちりょう)活動を行う救護班(きゅうごはん)

1945(昭和20)年8月7日
/広島市信用組合本部前 横川町3丁目(爆心地(ばくしんち)から1,700m)

救護班は、医師(いし)看護婦(かんごふ)を中心として何人かの班をつくり、数日間の日程(にってい)で市内に入りました。広島に着くと、まず防空(ぼうくう)本部のあった東警察署(けいさつしょ)(おもむ)き、そこから市内各所に設置(せっち)された救護所に派遣(はけん)されました。
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川岸に(もう)けられた救護所(きゅうごしょ)のテント
1945(昭和20)年8月8日/基町(爆心地(ばくしんち)から1,100m)
市内で救護活動が行われた場所 41
市内で救護(きゅうご)活動が
行われた場所

被爆(ひばく)当日は、橋のたもとや川原(かわら)など負傷者(ふしょうしゃ)が多く集まった場所がそのまま臨時(りんじ)の救護所となり、そこに救護(はん)派遣(はけん)される状況(じょうきょう)でした。
竹やぶの中の救護所 電車通りにできた救護所
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竹やぶの中の救護所(きゅうごしょ)
1945(昭和20)年8月/打越町(爆心地(ばくしんち)から2,000m)
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電車通りにできた救護所(きゅうごしょ)

1945(昭和20)年8月9日~14日
/舟入仲町(現在の舟入中町)(爆心地(ばくしんち)から1,300m)
郊外へ運ばれた負傷者
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郊外(こうがい)へ運ばれた負傷者(ふしょうしゃ)

広島市に隣接(りんせつ)する安芸・佐伯・安佐(ぐん)を中心として次々と救護所(きゅうごしょ)開設(かいせつ)されました。市内や近郊(きんこう)収容(しゅうよう)しきれなかった負傷者はさらに遠くの市町村に()り当てられ、各地の陸軍病院や救護所に運ばれました。人数や救護所の数は、記録の残っているものだけなので、実際(じっさい)は、これよりも多くの人々が収容され、救護所が設置(せっち)されたと思われます。
おばあちゃん、男の子、女の子
負傷者でいっぱいになった列車 45
負傷者(ふしょうしゃ)でいっぱいになった列車

1945(昭和20)年8月8日/志和口駅
広島駅が発着(はっちゃく)できなくなったため列車では、隣接(りんせつ)の矢賀や海田市の駅が起点(きてん)となって、多くの負傷者が郊外(こうがい)に運ばれました。また、軍用船やトラックも使用されました。

  焼け野原に人々を助けて
~薬も食べ物もない中で続けられた救(えん)活動~
 空襲(くうしゅう)に備えて
 大混乱(だいこんらん)の中の救(えん)活動
 ●本格的な救(えん)活動へ
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(1)
 救護(きゅうご)所の惨状(さんじょう)と人々の苦しみ(2)
 防空(ぼうくう)救援体制(きゅうえんたいせい)に関する年表

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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