きかくてんをみよう
救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
原子爆弾(ばくだん)が引き起こした災害(さいがい)は、瞬時(しゅんじ)に全市を(おそ)いました。

老若男女(ろうにゃくだんじょ)の別なく多くの生命が(うば)われ、
(きず)ついた人々の苦痛(くつう)の声、水を求める声、肉親を()ぶ声は、
市内全域(ぜんいき)から周辺市町村にまで(およ)びました。
県庁(けんちょう)・市役所・警察(けいさつ)など
ほとんどの官公庁(かんこうちょう)壊滅(かいめつ)状態(じょうたい)となり、
市中は大混乱(こんらん)(おちい)りました。

(よく)7日に暁部隊(あかつきぶたい)を中心に広島警備(けいび)司令部が設置(せっち)され、
軍・官・民一体となった救援(きゅうえん)活動がようやく行われるようになったのです。
県内各地からは警防団(けいぼうだん)が、
また医療(いりょう)救護(きゅうご)(はん)や軍隊は、
県内だけでなく県外からも続々と広島に入ってきました。

後藤利文さん
(陸軍、比治山(ひじやま)似島(にのしま)などで救護(きゅうご)活動)

後藤利文さん(当時19(さい))は、似島(にのしま)にある陸軍の検疫(けんえき)所の衛生兵(えいせいへい)でした。市内で被爆(ひばく)した家族の安否(あんぴ)がわからないまま、救護(きゅうご)伝染病(でんせんびょう)予防(よぼう)のための任務(にんむ)従事(じゅうじ)しました。実家は全焼し、姉と1(さい)に満たない(めい)()くなったのを知ったのは、8月の終わりのことでした。
負傷者を似島に運ぶ船
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負傷(ふしょう)者を似島(にのしま)に運ぶ船
1945(昭和20)年8月6日 午前8時45分(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約7,000m 宇品(うじな)沖合(おきあい)

「船上には、黒い人のかたまりが、力なく手を()っている。衣服は赤黒く、ボロボロに破れ、上半身はほとんど(はだか)であった。顔も手も体も赤黒い。手先からさがっている黒いボロ切れが人間の皮が焼けてむけたものだとわかるまで少し時間がかかった。」
助けを求める火傷を負った中学生たち 29
助けを求める
火傷(やけど)を負った中学生たち
1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約2,300m 比治山(ひじやま)

「電信隊(うら)広場から比治山(ひじやま)被災(ひさい)した人・人でうまっていた。木立ちの中の赤黒い顔が少しずつ近づいてきた。何とか助かろうとするのか、本能(ほんのう)だけで動いている。家屋疎開(そかい)従事(じゅうじ)していた中学生の白ハチマキが、()げたまま(ひたい)にに結ばれていて痛々(いたいた)しかった。」
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熱線で全身焼けただれた負傷(ふしょう)
1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約9,000m 似島(にのしま)検疫(けんえき)

似島(にのしま)には、被爆(ひばく)当日から多くの負傷者(ふしょうしゃ)搬送(はんそう)されました。その数は20日足らずで、1万人に(およ)びました。検疫(けんえき)所における不眠(ふみん)不休の看護(かんご)にもかかわらず、死亡(しぼう)者が相次ぎ、火葬(かそう)も間に合わないほどでした。
熱線で全身焼けただれた負傷者
負傷者の応急手当に使われた医薬品 31
負傷者(ふしょうしゃ)の応急手当に使われた医薬品
爆心地(ばくしんち)から約1,200m 山口町(現在(げんざい)の銀山町)

原田みどりさん
看護婦(かんごふ)(かすみ)町の陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)救護(きゅうご)活動)

原田みどりさん(当時33(さい))は、(かすみ)町(現在(げんざい)(かすみ)一丁目)の陸軍兵器補給(ほきゅう)(しょう)看護婦長(かんごふちょう)でした。被爆(ひばく)後、兵器補給廠(ほきゅうしょう)では門を開放し、助けを求めてくる負傷者(ふしょうしゃ)を収容しました。日が()れて見えなくなるまで負傷者(ふしょうしゃ)治療(ちりょう)する、夜は防空(ぼうくう)ごうに寝て、夜明けとともに起き、また治療(ちりょう)する、その()り返しで、原田さんたちは食事を取る余裕(よゆう)もありませんでした。
麻酔なしの手術に耐える男の子
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麻酔(ますい)なしの手術(しゅじゅつ)()える男の子
1945(昭和20)年8月7日 午前10時(ころ)
爆心地(ばくしんち)から約2,700m (かすみ)

「5、6(さい)の男の子の右脛骨部にガラスの破片(はへん)が深く刺さっていました。取り除かなければ化膿(かのう)して足を切断(せつだん)するようになります。麻酔(ますい)はなく、ガラスは深くて中々取れません。『もう取らなくてもいいよう。』幼児(ようじ)(うった)えに全員目をうるませて手術(しゅじゅつ)しました。」
倉庫の床に寝て治療を待つ負傷者たち 33
倉庫の(ゆか)に寝て治療(ちりょう)を待つ
負傷者(ふしょうしゃ)たち
1945(昭和20)年8月6日 午後
爆心地(ばくしんち)から約2,700m (かすみ)

「やっとの思いでたどりついた負傷者(ふしょうしゃ)を倉庫に収容しました。すぐに日が()れ、夜は電灯が点かず治療(ちりょう)が出来ません。『治療(ちりょう)して下さい』と泣きつかれるのを、(うし)(がみ)を引かれる思いで耳をふさいで引き上げる有様でした。」

武田明人さん
(くれ)警防団(けいぼうだん)住吉神社(すみよしじんじゃ)などで救護(きゅうご)活動)

7日、(くれ)警防団(けいぼうだん)は4台のトラックで広島に向かいました。歯科医の武田明人さん(当時43(さい))はその一員として救護(きゅうご)活動に参加しました。(くれ)空襲(くうしゅう)を体験していた武田さんもヒロシマの惨状(さんじょう)には(おどろ)くばかりでした。
大声で救援トラックを止めようとする婦人
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大声で救援(きゅうえん)トラックを止めようとする婦人(ふじん)
1945(昭和20)年8月7日 午前7時15分(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約5,250m 向洋付近

「向洋駅を通過した時、22、3(さい)婦人(ふじん)が現われた。(かみ)(みだ)れ、(すそ)はあらわに、顔はどす黒く、(わけ)のわからないことを口走りながらトラックに並行(へいこう)して走る。危険(きけん)なので車を止めて質問(しつもん)するがさっぱり要領(ようりょう)を得ない。ただわめくばかりである。」
救援のため入市する人々 35
救援(きゅうえん)のため入市する人々
1945(昭和20)年8月9日/爆心地(ばくしんち)から約250m 紙屋町交差点付近
被爆(ひばく)直後から、軍隊や県内外からの救護(きゅうご)班・警防団(けいぼうだん)が広島市に入りました。負傷者(ふしょうしゃ)の手当や死体の収容、焼け(あと)の整理にあたり、復(きゅう)に大きな役割(やくわり)を果たしました。

山岡文子さん
看護婦(かんごふ)、山口県緊急救護(きんきゅうきゅうご)班、舟入(ふないり)の電車通りで 救護(きゅうご)活動)

市内では、病院や学校のほか、負傷(ふしょう)者が集まった橋のたもとや、焼け(あと)などにも臨時(りんじ)救護(きゅうご)所が設置(せっち)されました。山岡文子さん(当時18(さい))は山口県から入市し、路面電車のレールの上にムシロを敷いた救護(きゅうご)所で負傷者(ふしょうしゃ)救護(きゅうご)にあたりました。()くなった人を火葬(かそう)する(けむり)が昼夜問わず上がっていました。
電車通りに横たわる負傷者
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電車通りに横たわる負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月9日~14日(ころ)
爆心地(ばくしんち)から約1,300m 舟入(ふないり)仲町(現在(げんざい)舟入(ふないり)中町)

「ほとんどの人が発熱していました。氷もなく、薬も赤チン、チンク油だけで治療(ちりょう)(ほどこ)しようがなく、(なぐさ)め見守るだけでした。身内に見守られながら()くなる人もありましたが、ほとんどは(わたし)たちが側にいるだけの孤独(こどく)な死でした。」
収容者名簿で家族の名前を捜す人々 「戦災死検調書(海田市警察署)」
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収容者名簿(めいぼ)で家族の名前を(さが)す人々
1945(昭和20)年8月10日
爆心地(ばくしんち)から約260m 紙屋町

帰らぬ家族の安否(あんぴ)を求めて、人々は救護(きゅうご)所を(たず)ね歩きました。しかし、遺体(いたい)確認(かくにん)できず、行方不明のままの人もたくさんいました。
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戦災死検調書(せんさいしけんちょうしょ)(海田市警察署(けいさつしょ))」

近隣(きんりん)の市町村には被爆(ひばく)直後から多くの被災者(ひさいしゃ)(のが)れてきました。神社(じんじゃ)や学校などに収容所が開設(かいせつ)され、被災者(ひさいしゃ)の収容および救護(きゅうご)が始まりましたが、手当ての甲斐(かい)もなく多くの人が()くなりました。

荒木常市さん
(海軍、広島駅周辺で救援(きゅうえん)活動)

戦時中、鉄道は膨大(ぼうだい)な兵員や軍需(ぐんじゅ)物資(ぶっし)輸送(ゆそう)を受け持っていたため、復旧(ふっきゅう)が急がれました。(くれ)の海軍特別陸戦隊に所属(しょぞく)していた荒木常市さん(当時20(さい))は、7日から連日、広島駅とその周辺の整理に従事(じゅうじ)しました。まだ残り火で熱い構内(こうない)に水を注ぎながらの作業でした。
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()げの帯にはさまれた紙の人形
1945(昭和20)年8月7日/爆心地(ばくしんち)から約1,900m 広島駅
「頭も(むね)もなく、胴体に巾広(はばひろ)の帯の巻いた所だけが残り、(こし)も足も全く無い。そんな焼死体が転がり、(はい)が熱くくすぶっていた。その1つを引っぱると帯がほどけ、紙で作った人形が2、3本ぱらっと出てきた。声もなく(なみだ)が出て止まらない。」
黒焦げの帯にはさまれた紙の人形


  ヒロシマの証言(しょうげん) ─(うば)われた街・残されたもの─
 ●なつかしの広島の風景
 原爆(げんばく)投下─上空に立ち上るきのこ雲
 ●1945年8月6日
 ●救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
 ●家族に残されたもの(1)
 ●家族に残されたもの(2)

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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