きかくてんをみよう
原爆(げんばく)投下―上空に立ち上るきのこ雲
1945(昭和20)年8月6日、
米軍のB29爆撃機(ばくげきき)「エノラ・ゲイ」は
2機の観測機(かんそくき)とともに広島市上空に侵入(しんにゅう)し、
午前8時15分、高度9,600mから原子爆弾(ばくだん)を投下しました。

原爆(げんばく)は地上600mの上空でさく(れつ)し、
爆発(ばくはつ)点の温度はセ氏100万度以上、
爆心地(ばくしんち)付近の地表面は、3,000度から4,000度に達しました。
また、爆発(ばくはつ)による大気の急激(きゅうげき)な変化できのこ雲が発生し、
高度約1万mにまで立ち上りました。
きのこ雲は、オレンジやピンクなど(あざ)やかな色で県内各地から目撃(もくげき)されています。

その下で、街は壊滅(かいめつ)し、多くの人々が()くなりました。

B29から投下された落下傘 9
B29から投下された落下傘(らっかさん)
爆心地(ばくしんち)から約3.4km 牛田町
市岡英史さん(当時28(さい))は、陸軍部隊の一員として弾薬庫(だんやくこ)警備(けいび)中に被爆(ひばく)しました。爆発(ばくはつ)の直前、B29と空に広がる落下傘(らっかさん)を見ました。落下傘(らっかさん)には、爆発(ばくはつ)を観測するための無線装置(そうち)がついていました。
きのこ雲
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きのこ雲
爆心地(ばくしんち)から約2.7km
(かすみ)町(現在(げんざい)(かすみ)一丁目))

深田敏夫さん(当時17(さい))は、動員学徒として陸軍兵器補給(ほきゅう)(しょう)で作業中に被爆(ひばく)しました。強烈(きょうれつ)なせん光がきらめいた後、爆風(ばくふう)()き飛ばされました。兵器庫の2階に()け上がったところ、見たことのない大きな爆煙(ばくえん)が立ち上っていました。
わき上がるきのこ雲 銀色のきのこ雲
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わき上がるきのこ雲
爆心地(ばくしんち)から約4km 庚午(こうご)
辻岡千代乃さん(当時40(さい))が、自宅(じたく)の2階から広島市内を見た光景です。オレンジ色の雲か(けむり)のようなものがムクムクとわき上がるように広がっていました。対岸の南観音町の三菱(みつびし)重工業広島機械製作所(せいさくしょ)では、爆風(ばくふう)により工場の屋根が()き飛びました。
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銀色のきのこ雲
爆心地(ばくしんち)から約30km 山県郡加計町
堀越進さん(当時6(さい))は、ピカッと光った後、(かみなり)が落ちたような大きな音を聞きました。まもなく山の向こうにきのこ雲が見えました。きのこ雲は、太陽に照らされ銀色に(かがや)き、徐々(じょじょ)に大きくなっていきました。
自動通報式爆発測定無線装置13
自動通報(つうほう)
爆発(ばくはつ)測定(そくてい)無線装置(そうち)
自動通報式爆発測定無線装置を分解・調査ょうさする様子
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自動通報(つうほう)爆発(ばくはつ)測定(そくてい)無線装置(そうち)分解(ぶんかい)調査(ちょうさ)する様子
1945(昭和20)年8月10日(ころ)(くれ)海軍工(しょう)電気部無線工場
原子爆弾(ばくだん)投下の直前に、観測機(かんそくき)から落下傘(らっかさん)で4()測定(そくてい)通信機材が投下されました。(くれ)海軍工(しょう)勤務(きんむ)していた大野茂さん、杉江敬一さんらは、回収(かいしゅう)された3()測定(そくてい)通信機材のうち1()分解(ぶんかい)調査(ちょうさ)しました。

  ヒロシマの証言(しょうげん) ─(うば)われた街・残されたもの─
 ●なつかしの広島の風景
 ●原爆(げんばく)投下─上空に立ち上るきのこ雲
 ●1945年8月6日
 救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
 ●家族に残されたもの(1)
 ●家族に残されたもの(2)

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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