きかくてんをみよう
家族に残されたもの
原子爆弾(ばくだん)は、一般(いっぱん)市民への無差別の攻撃(こうげき)でした。

原爆(げんばく)が投下されたのは市の中心部であり、
そこでは約35万の人が活動していました。
商店街があり、民家が立ち(なら)び、学校、病院、役所、銀行、そして会社があり、
多くの家族が、それぞれの生活を(いとな)んでいました。
それらは原爆(げんばく)によって何の区別もなく破壊(はかい)しつくされました。

昨日まで確かにそこにあり、今日、明日に続くはずだった家族とのきずなは、
突然(とつぜん)に、理不尽(りふじん)()ち切られ、二度と帰らないものとなったのです。

ここで取り上げた方々の体験は決して個人的(こじんてき)なものではありません。
原爆(げんばく)犠牲(ぎせい)となった方々のすべての家族が背負(せお)うこととなった
重く(いた)ましい体験なのです。

鈴木正道さん

(きゅう)・材木町は、現在(げんざい)の平和記念公園の原爆死没者(げんばくしぼつしゃ)慰霊碑(いれいひ)南側から平和大通りにかけてあった町で、6つの寺の周りに、商店や民家が(のき)を連ねていました。鈴木正道さん(当時55(とし))はその寺の一つ伝福寺の住職(じゅうしょく)でした。(つま)の芳子さん(当時48(さい))とともに自宅(じたく)被爆(ひばく)しました。爆心地(ばくしんち)から至近距離(しきんきょり)にあった材木町は壊滅(かいめつ)し、2人は焼け(あと)から遺骨(いこつ)で見つかりました。
献花台の前に立つ正道さん 熱線の跡が残る献花台
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献花(けんか)台の前に立つ正道さん
1926(大正15)年(ころ)
/材木町(現在(げんざい)の中島町)

右上に見える献花(けんか)台は、被爆(ひばく)により熱線を受けた個所(かしょ)の表面がはじけ飛び、もとの(よご)れた面にくらべて白っぽく変化しました。
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熱線の(あと)が残る
献花(けんか)
爆心地(ばくしんち)から約370m 材木町

角井多丸さん

角井コズミさん(当時30(さい))の夫多丸さん(当時36(さい))は、警察(けいさつ)勤務(きんむ)していました。コズミさんは、8日、帰らぬ夫を捜しに市内に入り、県警(けんけい)仮庁舎(かりちょうしゃ)(たず)ねました。そこで思いもよらず(わた)されたのは、遺品(いひん)となった半焼けの財布(さいふ)だったのです。教えられた鷹野(たかの)橋近くの死体収容所に()けつけ、多くの死体の中から合同火葬(かそう)の直前だった多丸さんを探し出し、遺骨(いこつ)を持ち帰ることができました。
角井多丸さん
数え切れないほどの死体の中から夫を見つける 42
数え切れないほどの
死体の中から夫を見つける
1945(昭和20)年8月8日
爆心地(ばくしんち)から約1,250m 国泰寺(こくたいじ)

「そこには目を(おお)いたくなるほどの数多くの死体が並べてあった。その中に赤銅(しゃくどう)色に焼け虚空(こくう)をつかむかのように両手を高く上げ、いかにも苦しかったであろう姿(すがた)の主人を見つけ、(わたし)は目もくらみそうだった。」
半焼けとなった財布 43
半焼けとなった財布(さいふ)
爆心地(ばくしんち)から約1,020m
国泰寺(こくたいじ)

小川イツエさん

小川春蔵さん(当時33(さい))は、(つま)イツエさん(当時21(さい))の身を案じ、自宅(じたく)のある市中心部の材木町に向かいました。しかし、焼け(あと)の壁土や(かわら)の間からはまだ火が()いており、自宅(じたく)に近づくことができません。春蔵(しゅんぞう)さんは、8日ようやく自宅(じたく)の焼け(あと)からイツエさんの遺骨(いこつ)遺品(いひん)()り出すことができました。
焼け跡に散乱する死体、水を求めてさまよう負傷者
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焼け(あと)散乱(さんらん)する死体、
水を求めてさまよう負傷者(ふしょうしゃ)
1945(昭和20)年8月6日 午後3時(ごろ)
爆心地(ばくしんち)から約500m 材木町(現在(げんざい)の中島町)

「材木町の焼け(あと)には学徒や勤労隊(きんろうたい)の人々の死傷者だけであった。元安川の両岸には特に多く集まっている。焼け野原のかなたに市役所、中国配電等の建物が亡霊(ぼうれい)の様に(なが)められた。」
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イツエさん愛用のはさみ
爆心地(ばくしんち)から約500m 材木町
イツエさん愛用のはさみ

公田忠一さん

公田弘さん(当時15(さい))の父の忠一さん(当時50(さい))は、十日市電停で被爆(ひばく)し大火傷(やけど)を負って、横川の広島市信用組合本部に収容されました。弘さんは忠一さんに付き()い、懸命(けんめい)に看病しましたが、その甲斐(かい)もなく、忠一さんは()くなりました。
公田忠一さん 負傷者の治療にあたる救援隊
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負傷者(ふしょうしゃ)治療(ちりょう)にあたる救援隊(きゅうえんたい)
1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約1,700m 横川町三丁目

焼け野原の中、鉄筋(てっきん)コンクリート(づく)りの広島市信用組合本部には、多くの被災者(ひさいしゃ)避難(ひなん)しました。7日早朝、賀茂(かも)海軍衛生(えいせい)学校の救援隊(きゅうえんたい)到着(とうちゃく)し、救護(きゅうご)所となりました。
被爆時に身につけていたベルト 49
被爆(ひばく)時に身につけていたベルト
爆心地(ばくしんち)から約750m 十日市

原田武子さん
原田武子さん シュミーズ
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シュミーズ

市立第一高等女学校3年生の原田武子さん(当時14(さい))は、爆心地(ばくしんち)から約1,900mの広島駅で被爆(ひばく)し、大火傷(やけど)を負って動員先の広島製鋼(せいこう)(りょう)に運ばれました。母親の充子さんの看病を受け快方(かいほう)に向かいましたが、9月17日に容態(ようだい)が急変、23日に死亡(しぼう)しました。このシュミーズは治療(ちりょう)時に着せていたものです。


  ヒロシマの証言(しょうげん) ─(うば)われた街・残されたもの─
 ●なつかしの広島の風景
 原爆(げんばく)投下─上空に立ち上るきのこ雲
 ●1945年8月6日
 救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
 ●家族に残されたもの(1)
 ●家族に残されたもの(2)

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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