きかくてんをみよう
家族に残されたもの

佐々木一彦さん

県立広島第一中学校の1年生は、雑魚場(ざこば)町(現在(げんざい)国泰寺(こくたいじ)町)の建物疎開(そかい)作業に動員されました。約300人のうち、ほとんどが即死(そくし)、または行方不明になり、生き残った生徒はごくわずかでした。佐々木一彦さん(当時12(さい))は校内で待機中に被爆(ひばく)、母の綾子さん(当時37(さい))が学校のプールの側で息()えていた一彦さんを見つけたのは、8日の朝のことでした。
佐々木一彦さん
プールに飛び込む中学生たち 52
プールに飛び()む中学生たち
1945(昭和20)年8月6日
爆心地(ばくしんち)から約900m 雑魚場(ざこば)

熱線を浴び全身に火傷(やけど)を負った県立広島第一中学校の生徒たちは、熱さに()えかね水を求めてプールに入り、そのまま息()えていきました。
被爆時に履いていた布製靴 54
被爆(ひばく)時に()いていた布製(ぬのせい)(くつ)
爆心地(ばくしんち)から約900m 雑魚場(ざこば)

脇田美智枝さん

山中高等女学校2年生の脇田美智枝さん(当時14(さい))は、雑魚場(ざこば)町で建物疎開(そかい)作業中に被爆(ひばく)し、似島(にのしま)に収容されて()くなりました。父の彦一さんが手にしたのは、数本の遺髪(いはつ)だけでした。1971(昭和46)年10月、似島(にのしま)中学校の工事現場(げんば)で、遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)作業が行われました。この時、名前の入った定期入れが発見されたことから身元が確認(かくにん)され、美智枝さんの遺骨(いこつ)は26年ぶりに彦一さんのもとに帰りました。
雨の中の遺骨発掘作業 55
雨の中の
遺骨(いこつ)発掘(はっくつ)作業
1971(昭和46)年
10月29日/似島(にのしま)

この時の発掘(はっくつ)で612体の遺骨(いこつ)と62点の遺品(いひん)が見つかり、脇田美智枝さんを(ふく)めて7人の方の遺骨(いこつ)確認(かくにん)されています。
似島で見つかった定期入れ 56
似島(にのしま)で見つかった
定期入れ
爆心地(ばくしんち)から約1,200m
雑魚場(ざこば)

岡本昭三さん

岡本昭三さん
ズボン 58
ズボン
爆心地(ばくしんち)から約800m 八丁堀(はっちょうぼり)
崇徳中学校1年生の岡本昭三さん(当時12(さい))は、建物疎開(そかい)作業中に被爆(ひばく)しました。大火傷(やけど)を負い、体の前面にはたくさんのガラス(へん)()()さりました。市内の近くに住んでいた姉が連れ帰って看病(かんびょう)しましたが、(よく)7日朝、母のマサヨさんが()けつけると間もなく息を引き取りました。

子川美奈子さん

県立広島第一高等女学校1年生の子川美奈子さんは、土橋付近で建物疎開(そかい)作業中に被爆(ひばく)しました。父の政見さんは、美奈子さんが三滝(みたき)避難(ひなん)していると聞き、急いで()けつけましたが、すでに()くなっていました。火傷(やけど)した美奈子さんを家族に見せるのはあまりにもむごいと思った政見さんは、一人で遺体(いたい)を焼き、遺骨(いこつ)を持ち帰りました。
竹やぶの中の救護所 文字が焼き抜かれた名札
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竹やぶの中の救護(きゅうご)
爆心地(ばくしんち)から約2,000m 打越(うちこし)
全壊(ぜんかい)した広島第二陸軍病院三滝(みたき)分院(あと)には臨時救護(りんじきゅうご)所が開設(かいせつ)されました。周囲の竹やぶに蚊帳(かや)をつり、避難(ひなん)(ひなん)してきた負傷(ふしょう)者を収容しました。三滝(みたき)山のふもとや山手川の川原では、死者を火葬(かそう)する(けむり)が絶えませんでした。
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文字が焼き()かれた名札
爆心地(ばくしんち)から約800m
/土橋付近

「広島第一県女 子川美奈子 血液型(けつえきがた)A型」と書かれていました。

峯本等さん

県立広島第二中学校1年生の峯本等さん(当時12(さい))は、中島新町で建物疎開(そかい)作業中に被爆(ひばく)しました。父の哲一さんは、夕方になってようやく道に(たお)れていた等さんを見つけることができました。上半身に大火傷(やけど)を負った等さんは、一晩中(ひとばんじゅう)苦しみながらも、被爆(ひばく)してからのことを家族に語り、7日早朝5時(ごろ)、息を引き取りました。
峯本等さん
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沿()いに折り重なる動員学徒の死体
1945(昭和20)年8月7日
爆心地(ばくしんち)から約620m 新大橋(現在(げんざい)の西平和大橋)

中島新町から天神町の付近には2,000人近い中学生、女学生が建物疎開(そかい)作業に従事(じゅうじ)していました。爆心地(ばくしんち)に近いこの地域で屋外の作業をしていた生徒たちは、ほぼ全滅(ぜんめつ)でした。
川沿いに折り重なる動員学徒の死体
焼け焦げた学生服 63
焼け()げた学生服
爆心地(ばくしんち)から約600m 中島新町(現在(げんざい)の中島町)

本田家
瓦礫に埋まった陶器類
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瓦礫(がれき)()まった陶器(とうき)
爆心地(ばくしんち)から約470m 大手町四丁目(現在(げんざい)の大手町二丁目)
本田家では、同居していた親族8人のうち、5人が被爆死(ひばくし)しました。本田俊夫さん(当時36(さい))は、自宅(じたく)焼け(あと)で5人の遺体(いたい)を見つけました。俊夫さんが焼け(あと)から拾い集めたこの食器類は、大家族が家でいつも使っていたものでした。

小原静子さん
小原静子さん 抹茶茶碗
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抹茶茶碗(まっちゃぢゃわん)

小原静子さん(当時19(さい))は、出勤途中(しゅっきんとちゅう)爆心地(ばくしんち)から約1,500mの三篠(みささ)橋付近で被爆(ひばく)しました。広島陸軍病院で治療(ちりょう)を受けましたが、8月9日に()くなりました。兵隊が拾ってきてくれたこの抹茶茶碗(まっちゃぢゃわん)に静子さんの遺骨(いこつ)を入れて持ち帰りました。

前瓦家
表札
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表札
爆心地(ばくしんち)から約750m 新川場町(現在(げんざい)の小町)
前瓦清一さんの家は爆風(ばくふう)で倒壊・炎上(えんじょう)し、一家全員が()くなりました。遺骨(いこつ)は、たくさんの遺体(いたい)一緒(いっしょ)に合同で火葬(かそう)されたため、確認(かくにん)することができませんでした。清一さんの姉の歳子さんは焼け(あと)から出てきたこの表札を一家の形見として保管していました。

宮本弘さん
溶けた瓦の塊
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()けた(かわら)(かたまり)
爆心地(ばくしんち)から約1,100m 寺町
広島市第二国民学校生徒の宮本弘さんは、歯医者に行く途中(とちゅう)被爆(ひばく)し、行方不明になりました。これは9月の終わり(ごろ)、家族で弘さんを捜した帰りに、寺町で拾ったものです。弘さんの被爆(ひばく)場所ではないかと思われるこのあたりにはトタン板にのせた遺骨(いこつ)がたくさんありましたが、それを拾う気になれず、この(かわら)(かたまり)遺骨(いこつ)代わりに持ち帰りました。


  ヒロシマの証言(しょうげん) ─(うば)われた街・残されたもの─
 ●なつかしの広島の風景
 原爆(げんばく)投下─上空に立ち上るきのこ雲
 ●1945年8月6日
 救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
 ●家族に残されたもの(1)
 ●家族に残されたもの(2)

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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