きかくてんをみよう
なつかしの広島の風景
戦前の広島は、太田川の舟運(しゅううん)(きゅう)西国街道により発展(はってん)しました。
路面電車や、鉄筋(てっきん)コンクリート(づく)りの建物の出現(しゅつげん)は、
近代的な都市へと景観(けいかん)を変えていきました。
一方、川や路地裏(ろじうら)では、子供(こども)たちの歓声(かんせい)(ひび)き、
また、四季を通じてさまざまな表情(ひょうじょう)がありました。

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川の街広島
1938(昭和13)年(ごろ)/元安川
広島市内には、7本の川が流れ、舟運(しゅううん)によってさまざまな物資(ぶっし)が運ばれてきました。広島(わん)()かぶ江田島(えたじま)似島(にのしま)からは、野菜や魚を満載(まんさい)した番船が川を上ってきました。川岸には家が立ち(なら)び、かき船もありました。
川の街広島
家の裏は遊泳場 2
家の(うら)は遊泳場
1922(大正11)年(ごろ)元安川
川は、子供(こども)たちの遊び場でした。()んだ川の(いた)る所に遊泳場が設けられました。川が深くなっているところには、飛び()み台もありました。
川沿いの花見 新天地の華やかな活動写真館
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沿()いの花見
1940 (昭和15)年(ごろ)太田川
市街地の北、大芝(おおしば)長寿園(ちょうじゅえん)あたりの太田川沿()いの土手には、春になると(さくら)を見物する人々の行列が続きました。弁当(べんとう)や酒を持参し、大人も子供(こども)(さくら)の木の下で楽しみました。
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新天地の(はな)やかな活動写真館
1920年代前半(大正後期)
路面電車の開通に(ともな)って新しい盛り場(さかりば)新天地が開業し、映画館(えいがかん)劇場(げきじょう)、カフェーやレストランが(のき)を連ねました。
広島初の百貨店 家族連れでにぎわう夜店
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広島初の百貨店
1920年代後半(昭和初期八丁堀(はっちょうぼり)
1929(昭和4)年、路面電車の路線が交差する八丁堀(はっちょうぼり)に、広島初の百貨店、福屋が誕生(たんじょう)しました(現在(げんざい)の福屋の北向かい側)。鉄筋(てっきん)コンクリート4階建ての建物に当時(めずら)しかったエレベーターがお目見えし、多くの人々でにぎわいました。
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家族連れでにぎわう夜店
1935(昭和10)年(ごろ)/東白島町
白島尋常(じんじょう)高等小学校(現在(げんざい)の白島小学校)の(うら)通りに並んだ夜店では、値段(ねだん)の安い商品が(なら)び、たくさん買い物をすることができました。バナナのたたき売りは、独特(どくとく)の口上で客の足を引き止め、上手にバナナを売りました。
サツマイモ畑となった校庭 7
サツマイモ畑となった校庭
1944(昭和19)年
舟入(ふないり)国民学校(現在(げんざい)舟入(ふないり)小学校)

戦争が長期化し食糧(しょくりょう)や日用品などの生活物資(ぶっし)(とぼ)しくなると、米や砂糖(さとう)などは配給制(はいきゅうせい)となりました。さらに食糧(しょくりょう)不足が深刻(しんこく)になると、学校の校庭や空き地も畑に変わり、サツマイモやカボチャが植えられました。
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空襲(くうしゅう)(のが)れて疎開(そかい)先へ
1945(昭和20)年4月14日/安芸飯室駅
戦局が悪化し、日本本土にも空襲(くうしゅう)が始まると、国民学校(現在(げんざい)の小学校)3年生以上の子供(こども)たちは、親元を(はな)れて地方に疎開(そかい)し、寺や集会所などで集団(しゅうだん)生活をするようになりました。
空襲を逃れて疎開先へ

  ヒロシマの証言(しょうげん) ─(うば)われた街・残されたもの─
 ●なつかしの広島の風景
 原爆(げんばく)投下─上空に立ち上るきのこ雲
 ●1945年8月6日
 救援(きゅうえん)者の見たヒロシマ
 ●家族に残されたもの(1)
 ●家族に残されたもの(2)

 おわりに 御協力いただいた方々・機関(きかん)

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