きかくてんをみよう
■今 明かされる思い
帰らぬ人の面影(おもかげ)
家族のもとに残されたのは、生前の遺品(いひん)のみでした。
形見となってしまった品の数々、今まで大切に保管(ほかん)されてきたものです。

日が()つにつれ、焼け跡(やけあと)には、肉親を(さが)す人々が()えました。大きな収容所(しゅうようじょ)では、一時も早く生存(せいぞん)(いな)かを(たし)かめようとする人々が()しかけ、収容者(しゅうようしゃ)受付簿(うけつけぼ)(うば)()うなど、混乱(こんらん)(きわ)めました。救護所(きゅうごしょ)(かべ)には、安否(あんぴ)確認(かくにん)する伝言が書かれました。遺体(いたい)はおろか、遺留品(いりゅうひん)すら発見できず、むなしく帰っていく人、ついには錯乱(さくらん)状態(じょうたい)(おちい)っていく人も少なくありませんでした。
残された家族にとっては、生前犠牲者(ぎせいしゃ)が愛用していたものや、帰らぬ人を(さが)し歩いた()(あと)で拾ったものが、形見となりました。
23
24
25
暁部隊(あかつきぶたい)(いん)
平間寛次郎さん(当時40(さい) 爆心地(ばくしんち)から約2000mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):子 平間悦郎さん

陸軍(りくぐん)船舶司令部(せんぱくしれいぶ)暁部隊(あかつきぶたい)副司令官の平間寛次郎さんは、比治山(ひじやま)の司令部へ向かう途中(とちゅう)被爆(ひばく)。その後、復員局(ふくいんきょく)勤務(きんむ)しましたが、1953(昭和28)年、白血病で()くなりました。
部下の兵士が、決裁(けっさい)に必要な部隊印を持ち出して入院先へ(とど)け、そのまま終戦を(むか)えたため、自宅(じたく)に印が残りました。

 被爆(ひばく)直後の状況(じょうきょう)を「地獄絵(じごくえ)そのものだ」と話題にすることすら(いや)がっていた母が()くなった今、当時の広島市内の惨状(さんじょう)、兵隊さん達や部隊印のことを知っているのは(わたし)だけとなりました。父の一生は戦争に()()れていたのが良く分かります。今の平和に感謝(かんしゃ)しています。
寄贈者(きそうしゃ)のコメントより
■バッグ■
関菊松さん(当時55(さい) 被爆(ひばく)した場所不明)
寄贈者(きそうしゃ):子 川本都さん(当時17(さい) 爆心地(ばくしんち)から約2000mで被爆(ひばく))

川本都さんは、己斐(こい)陸軍被服(りくぐんひふく)支廠(ししょう)分所で被爆(ひばく)しました。幸いけがもなく、自宅(じたく)近くで母親と再会(さいかい)しました。父の菊松さんを(さが)して、連日市内を歩きまわりましたが、消息は分かりませんでした。
被爆(ひばく)当日も持っていたこのバッグは、都さんが菊松さんに買ってもらった唯一(ゆいいつ)(おく)(もの)です。

 終戦の前年、父はなけなしのお金で母と(わたし)にバッグを買い、照れくさそうに手渡(てわた)しました。(わたし)たちはうれしさを(かく)せませんでした。長年反戦運動をして家族に迷惑(めいわく)をかけた父の(つぐな)いの気持ちだと分かったからです。父と原爆(げんばく)、そして昭和を語るものとして、()てることができません。
寄贈者(きそうしゃ)の手記より
26
27
28
■たんす■
末永ミサヲさん(当時39(さい) 爆心地(ばくしんち)から約2700m)
寄贈者(きそうしゃ):子の(つま) 末永喜久枝さん

末永ミサヲさんは、国民(こくみん)義勇(ぎゆう)隊員(たいいん)として小網町付近(こあみちょうふきん)建物(たてもの)疎開(そかい)作業中(さぎょうちゅう)被爆(ひばく)。行方不明のままです。大芝(おおしば)町の自宅(じたく)で使っていたこのたんすは、引き出しの一部が()げていますが、家族が形見として大切にしていました。

 このたんすは、夫が母親の形見として大切にし、何度かの引越(ひっこ)しの(さい)も手放さずにいたものです。夫が()くなり、今後自分も高齢(こうれい)となれば、保管(ほかん)(むずか)しくなると考え寄贈(きぞう)を決意しました。
寄贈者(きそうしゃ)のコメントより
■教科書・ノート■
篠崎道人さん(当時19(さい) 被爆(ひばく)した場所不明)
寄贈者(きそうしゃ):妹 芳賀順子・深見昭子さん

広島高等学校1年生の篠崎道人さんは、6日朝、宿泊(しゅくはく)した友人宅(ゆうじんたく)から学校へ向かう途中(とちゅう)被爆(ひばく)しました。家族は手分けして(さが)しましたが、見つけることはできませんでした。道人さんの死を受け入れることのできなかった家族が、大切に保管(ほかん)してきた学用品です。

 8月15日、敗戦のラジオ放送に耳を(かたむ)けていた父が、私達(わたしたち)の前で急に(かた)(ふる)わせながら、「どうしてあと十日、十日早かったら・・・。」父とは決して泣かないものだと思っていた(わたし)は、敗戦のわずか十日前に原爆(げんばく)で息子を失った父の無念の血の(なみだ)を見たのです。
寄贈者(きそうしゃ) 芳賀順子さんの手記より
29

18

31
33 32

31.32.33
■女子挺身隊章(ていしんたいしょう)履歴書(りれきしょ)
片山菊枝さん(当時17(さい) 爆心地(ばくしんち)から約4,000mで被爆(ひばく))
寄贈者(きそうしゃ):弟 片山穫さん

片山菊枝さんは、女子挺身隊員(ていしんたいいん)として動員されていた宇品(うじな)陸軍(りくぐん)船舶司令部(せんぱくしれいぶ)所属部隊(しょぞくぶたい)(暁部隊(あかつきぶたい))で被爆(ひばく)。大きなけがはなく、9月10日まで、金輪島(かなわじま)被災者(ひさいしゃ)救援活動(きゅうえんかつどう)にあたりました。除隊時(じょたいじ)(つか)()てていましたが、元気になったら就職(しゅうしょく)するからと履歴書(りれきしょ)を書きました。しかしその後、鼻血や歯茎(はぐき)からの出血が始まり、1946(昭和21)年5月に()くなりました。

 一人娘(ひとりむすめ)を大変かわいがっていた父が、仏壇(ぶつだん)(おさ)め大切にしていた遺品(いひん)ですが、平和教育に役立てていただければと思います。
寄贈者(きそうしゃ)のコメントより
■手帳■
片岡貞子さん(当時15(さい) 被爆(ひばく)した場所不明)
寄贈者(きそうしゃ):母 片岡秀子さん

県立広島第二高等女学校3年生の片岡貞子さんは、学徒動員先へ向かったまま帰ってきませんでした。14日になって、貞子さんが十日市町で()くなっているのを見た人から、身につけていたポーチと名札が(とど)けられ、両親はそれをお(はか)(おさ)めました。この手帳は、貞子さんが友人から(おく)られたもので、母親の秀子さんが、大切に保管(ほかん)していました。

 身元のわからない遺骨(いこつ)原爆供養塔(げんばくくようとう)(おさ)められたということなので、60年間一度も8月6日の供養塔(くようとう)へのお参りを欠かしたことはありません。自分も高齢(こうれい)で、いつどうなるかわからないので、この手帳を資料館(しりょうかん)(おさ)めたいと思います。
寄贈者(きそうしゃ)のコメントより
35
34
 

  託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より


●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
  あの日の記憶
  消えない悲しみ
  帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
  -寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
  広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに

 ▲TOPにもどる