きかくてんをみよう
■今 明かされる思い
平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)が期間中に寄贈(きぞう)を受けた被爆(ひばく)資料(しりょう)のうち、平成17年度に収集(しゅうしゅう)したものの中からいくつか取り上げ、寄贈者(きそうしゃ)の手記やコメントを交えて紹介(しょうかい)します。
あの日の記憶(きおく)
被爆者本人(ひばくしゃほんにん)から寄贈(きぞう)された、当時の様子を物語る資料(しりょう)です。
(わす)れることのできない恐怖(きょうふ)や苦しみが、60年()った今も伝わってきます。
あの日、1945(昭和20)年8月6日月曜日、空には雲もなく、真夏の太陽が(のぼ)ると、気温はぐんぐん上昇(じょうしょう)しました。午前7時9分に発令された警戒警報(けいかいけいほう)も7時31分には解除(かいじょ)され、人々は(みな)ホッと一息ついていました。8月とはいえ、当時学校の休みはほとんどなく、国民学校高等科以上の生徒は、連日工場や建物(たてもの)疎開(そかい)現場(げんば)で働いていました。この日も早朝から、多くの学徒や近郊(きんこう)市町村の住民が動員されていたほか、4万人の軍関係者などを合わせて、35万人前後の人が広島市内にいたと考えられています。いつもと変わらぬ朝が始まった8時15分、すさまじい閃光(せんこう)が全市をおおいました。
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荒井覺さんは大河国民学校(おおこうこくみんがっこう)5年生でした。比治山橋(ひじやまばし)東詰(ひがしづ)め付近の建物疎開(たてものそかい)現場(げんば)被爆(ひばく)し、顔や手足に大やけどを負いました。当日着ていたシャツの(むね)には、父親が書いた名札がついていましたが、熱線により文字の部分が焼きぬけています。

 被爆(ひばく)してからは、ギラギラして波打つ白い色(人絹(じんけん)でできた白い旗のようなもの)を見ると、頭はグラグラして()()をもよおし、それは気持ちの悪いものです。
 一生負っていかねばならない後遺症(こういしょう)(だれ)(うった)えたらいいのでしょうか。決して消すことのできない重苦しいあの日の記憶(きおく)が、夏の(おとず)れとともによみがえってくるのです。
本人手記より
■名前の焼きぬけたシャツ■
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荒井覺さん(当時10(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1700mで被爆(ひばく))
■ワンピース■
高瀬二葉さん(当時18(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1100mで被爆(ひばく))

高瀬二葉さんは、母親と妹と一緒(いっしょ)に、東京から広島の親せきを(たよ)って疎開(そかい)してきたばかりでした。大手町にあった疎開先(そかいさき)で、家族全員が被爆(ひばく)。三人は(たが)いに助け合いながら火の海となった街から避難(ひなん)しましたが、母親の節子さんは、9月1日に()くなりました。これは、当日二葉さんが着ていたワンピースです。

 このワンピースは母の手作りでしたので、形見と思って大事にして、結婚(けっこん)する時も荷物の底に入れて持参しました。
 多くの人に核兵器(かくへいき)(おそ)ろしさや戦争のむなしさ、(みにく)さ、苦しみを知って(いただ)いて、良識(りょうしき)を持って(かく)の無い平和であり続ける幸せを目標にして(いただ)きたいと願っています。
本人手記より
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■シュミーズ■
堀本忍さん(当時19(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1700mで被爆(ひばく))

堀本忍さんは、女子(じょし)挺身(ていしん)隊員(たいいん)として鉄道局へ出勤(しゅっきん)する途中(とちゅう)大須賀(おおすが)町で被爆(ひばく)倒壊(とうかい)した建物の下から自力で脱出(だっしゅつ)し、ボロボロになった上着とモンペを()()て、シュミーズだけになって()げました。
当日着ていたこのシュミーズは、母親の手製(てせい)で、()がせるときに切った(あと)があります。

 山道を歩いていると、首にやけどを負って広島駅から()げてきたおじさんが背負(せお)ってくれました。夜、()や虫にたかられていると、近所の人が外套(がいとう)を着せてくれました。大変な目にあいましたが、人の(なさ)けが身にしみてありがたく思いました。
本人手記より
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裁縫(さいほう)コテ・切符(きっぷ)・ガラス(へん)
矢野しげ子さん(当時30(さい) 爆心地(ばくしんち)から約1800mで被爆(ひばく))

矢野しげ子さんは、3人の子どもを連れて実家へ向かうため、横川(よこがわ)から可部(かべ)行きの電車に乗り込(のりこ)むと同時に被爆(ひばく)負傷(ふしょう)しながらもどうにか実家へたどり着きましたが、()()のイシさんは天満町の自宅(じたく)で焼死し、十日市町で被爆(ひばく)した夫の仁三郎さんも8月22日に()くなりました。これらは当日、しげ子さんのモンペのポケットに(はい)()んだガラス(へん)と、乗っていた電車の切符(きっぷ)、持っていた愛用のコテ。

 (ぎぼ)は、台所の(かべ)下敷(したじ)きになって、ボール大に焼け残っていた。(中略(ちゅうりゃく))中の子が、その後顔が(いた)いというので、義母(ぎぼ)肉塊(にくかい)を心を(おに)にして黒焦(くろこ)げに焼いて、顔が黒くなるまで()った。 義母(ぎぼ)のおかげでやけどのあとはない。身代わりになってくれたのであろう。
本人体験記より
■湯のみ■
三宅加代子さん(当時7(さい) 爆心地(ばくしんち)から約2400mで被爆(ひばく))

牛田国民学校2年生の三宅加代子さんは、牛田町の自宅(じたく)近くで被爆(ひばく)祖母(そぼ)や妹らとともに牛田国民学校へ避難(ひなん)、1週間後母親の政枝(まさえ)さんと再会(さいかい)することができました。
この湯のみは、自宅(じたく)()(あと)から持ち帰ったものです。

 戦後60年()つうちに、原形をとどめる湯のみもいつしか4()だけとなりました。母が生前「ピカドンの形見だから大事に残しておけ」と常々(つねづね)口にしていたものです。平和記念資料館(へいわきねんしりょうかん)で大切に保管(ほかん)されることが、親孝行(おやこうこう)になると思います。
本人手記より
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  託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より


●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
  あの日の記憶

  消えない悲しみ
  帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
  -寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
  広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに

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