■今 明かされる思い
消えない悲しみ
犠牲者
(
ぎせいしゃ
)
の
遺族
(
いぞく
)
から
寄贈
(
きぞう
)
された
被爆
(
ひばく
)
資料
(
しりょう
)
です。
大切な人を
奪
(
うば
)
われた悲しみが、焼け
焦
(
こ
)
げた
遺品
(
いひん
)
から伝わってきます。6日の夜、全てを
焼き尽
(
やきつ
)
くした
火災
(
かさい
)
はようやく
収
(
おさ
)
まっていましたが、市街地はなお赤々と火を残し、空は高く明るんでいました。
臨時救護所
(
りんじきゅうごしょ
)
には、
負傷者
(
ふしょうしゃ
)
の
苦悶
(
くもん
)
の声、肉親を
呼
(
よ
)
び合う声、助けを求める声が
一晩中
(
ひとばんじゅう
)
続きました。しかし、
再会
(
さいかい
)
した家族に引き取られていく人はごくわずかで、ほとんどの人たちは、身元を
確認
(
かくにん
)
する間もなく、次々と
亡
(
な
)
くなっていったのです。
膨大
(
ぼうだい
)
な数の
遺体
(
いたい
)
は、いたる所に
急造
(
きゅうぞう
)
された
臨時
(
りんじ
)
の
火葬場
(
かそうば
)
で、次々と
荼毘
(
だび
)
に付されました。死を待つばかりの
被爆者
(
ひばくしゃ
)
は、その作業を、ただうつろに
眺
(
なが
)
めているだけでした。
1
10
11
■
財布
(
さいふ
)
■
木村豊さん(当時18
歳
(
さい
)
爆心地
(
ばくしんち
)
から約1100mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:弟 木村秀男さん
木村豊さんの家族は、
幾日
(
いくにち
)
も市内を
捜
(
さが
)
し回り、
広瀬
(
ひろせ
)
国民学校
(
こくみんがっこう
)
講堂
(
こうどう
)
の
焼
(
や
)
け
跡
(
あと
)
で、頭部と
胴体
(
どうたい
)
だけになった
痛
(
いた
)
ましい
姿
(
すがた
)
の豊さんを発見しました。上着のポケットにあった見覚えのある
財布
(
さいふ
)
で
遺体
(
いたい
)
を
確認
(
かくにん
)
した家族は、その場で豊さんを
荼毘
(
だび
)
に付しました。
遺品
(
いひん
)
は60年間
仏壇
(
ぶつだん
)
に
納
(
おさ
)
め大切に
保管
(
ほかん
)
していましたが、このような
不穏
(
ふおん
)
な
情勢
(
じょうせい
)
のもと、
再
(
ふたた
)
びあの
原爆
(
げんばく
)
の
惨状
(
さんじょう
)
が
繰
(
く
)
り
返
(
かえ
)
されないように
皆様
(
みなさま
)
に見ていただきたいと考え、
寄贈
(
きぞう
)
に
踏
(
ふ
)
み
切
(
き
)
りました。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
のコメントより
■
腕時計
(
うでどけい
)
■
名川敏子さん(当時22
歳
(
さい
)
爆心地
(
ばくしんち
)
から約1200mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:弟 名川淳史さん
名川敏子さんは、
幟町
(
のぼりまち
)
の
自宅
(
じたく
)
で
被爆
(
ひばく
)
しました。
倒壊
(
とうかい
)
した家屋に火の手が
迫
(
せま
)
り、家族は敏子さんを助け出すことができませんでした。日が
暮
(
く
)
れて
焼
(
や
)
け
跡
(
あと
)
を
訪
(
おとず
)
れた父親は、敏子さんの
白骨
(
はっこつ
)
と
腕時計
(
うでどけい
)
を発見しました。時計の
針
(
はり
)
は、
倒壊
(
とうかい
)
した家屋の
下敷
(
したじ
)
きとなった敏子さんが
炎
(
ほのお
)
に包まれたと思われる、1時を指して止まっていました。
昭和20年に父も
原爆症
(
げんばくしょう
)
で
亡
(
な
)
くなりました。この時計は
私
(
わたし
)
が
受
(
う
)
け
継
(
つ
)
いでいましたが、子ども達には身近でないため、
資料館
(
しりょうかん
)
で大切に
保存
(
ほぞん
)
してもらいたいと考えました。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
のコメントより
12
13
15
14
■ズボン・
帽子
(
ぼうし
)
■
東良樹さん(
爆心地
(
ばくしんち
)
から約2200mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:
叔母
(
おば
)
杉原キクエさん
1年生の東良樹さんは、朝礼中に校庭で
被爆
(
ひばく
)
。
救護所
(
きゅうごじょ
)
に
収容
(
しゅうよう
)
されている良樹さんを、母ミヤコさんが発見し
疎開先
(
そかいさき
)
に連れて帰りました。病院で
治療
(
ちりょう
)
を受けましたが、9月24日に良樹さんは
亡
(
な
)
くなりました。
一人息子を
亡
(
な
)
くした姉が平成15年に
亡
(
な
)
くなり、
自宅
(
じたく
)
を整理した
際
(
さい
)
、洋服ダンスの中から見つけました。姉は生前このことについて何も話しませんでしたので、
存在
(
そんざい
)
することすら知りませんでした。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
のコメントより
■医学書・軍刀■
西川治良兵衛さん(当時39
歳
(
さい
)
爆心地
(
ばくしんち
)
から約700mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:子 西川廉行さん
西川治良兵衛さんは、
基町
(
もとまち
)
にあった広島陸軍第二病院の軍医でした。家族は、8日になっても帰ってこない治良兵衛さんを
捜
(
さが
)
して、病院の
焼
(
や
)
け
跡
(
あと
)
を
掘
(
ほ
)
り
返
(
かえ
)
しましたが、
遺骨
(
いこつ
)
を見つけることはできませんでした。焼け残っていた軍刀とドイツ語の医学書が、
遺骨
(
いこつ
)
の代わりとなって
仏壇
(
ぶつだん
)
に
供
(
そな
)
えられました。
少しでも
原爆
(
げんばく
)
の
悲惨
(
ひさん
)
さを伝えるのに役立てばと思い、
寄贈
(
きぞう
)
を決心しました。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
のコメントより
17
16
18
20
21
19
■ズボンと
手袋
(
てぶくろ
)
■
浅野綜智さん(当時12
歳
(
さい
)
爆心地
(
ばくしんち
)
から約800mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:弟 浅野純以さん
崇徳
(
そうとく
)
中学校1年生の浅野綜智さんは、
八丁堀
(
はっちょうぼり
)
・白島方面で
建物
(
たてもの
)
疎開
(
そかい
)
作業
(
さぎょう
)
中に
被爆
(
ひばく
)
。7日、
常葉橋
(
ときわばし
)
のたもとにいるところを、
叔父
(
おじ
)
に助けられましたが、その日のうちに
亡
(
な
)
くなりました。15日に、
愛媛県
(
えひめけん
)
の両親が
到着
(
とうちゃく
)
した時、綜智さんはすでに
遺骨
(
いこつ
)
となっていました。これらは、当日綜智さんが身につけていたものです。
(兄は)6日の夜は、
寝
(
ね
)
たら死体と
間違
(
まちが
)
われて焼かれてしまうと思い、
寝
(
ね
)
なかったんだと話しました。
叔母
(
おば
)
が、「
寝
(
ね
)
なかったのなら
眠
(
ねむ
)
いでしょう。今日は早く
寝
(
ね
)
なさい。」と声をかけると、そこにいたみんなに「おやすみなさい」といって
眠
(
ねむ
)
り、夜
遅
(
おそ
)
くそのまま息を引き取りました。
寄贈者
(
きそうしゃ
)
のコメントより
■米びつ■
飯田ショウさん(
爆心地
(
ばくしんち
)
から約550mで
被爆
(
ひばく
)
)
寄贈者
(
きそうしゃ
)
:子の
妻
(
つま
)
飯田粋さん
鷹匠
(
たかじょう
)
町で材木商を
営
(
いとな
)
んでいた飯田清五郎さんは、8月6日は
疎開先
(
そかいさき
)
へ荷物を運びに出かけていたため無事でしたが、
妻
(
つま
)
のショウさんが
自宅
(
じたく
)
で
被爆
(
ひばく
)
し、
亡
(
な
)
くなりました。
清五郎さんが
亡
(
な
)
くなった後、
屋根裏
(
やねうら
)
から見つかった米びつは、
被爆
(
ひばく
)
当時
蔵
(
くら
)
の地下へ
埋
(
う
)
めていたものと分かりましたが、
詳
(
くわ
)
しいことは不明です。中の米は、炭化して黒くなっています。
22
託された過去と未来
■被爆資料・遺影・体験記全国募集 新着資料より
●はじめに
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の概要-収集実績の解説
■今 明かされる思い
あの日の記憶
消えない悲しみ
帰らぬ人の面影
■私たちに託される思い
-寄せられた資料の中から
■被爆資料・遺影・体験記全国募集の成果
広島平和記念資料館への寄贈資料
●おわりに
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